1707年(宝永4年)、富士山が大噴火。宝永火口からの火山灰が江戸に降り積もる
首都圏直下型だったと考えられる元禄大地震を機に、元号が元禄から宝永に代わった翌年の九州霧島の噴火(宝永2年)、浅間山の噴火(宝永3年)、南海トラフを震源とするプレート境界型地震、宝永大地震(宝永4年10月4日、現在の暦で10月28日)に引き続いて、11月23日(同じく12月16日)に富士山が大噴火した。
被害は山麓の集落を埋め、酒匂川流域の小田原地方では、100年以上に渡って土石流災害に苦しめられることになった。
(画像はいずれも静岡大学防災総合センターのページへのリンク)
降灰は江戸市中で3センチほど積もり、さらに広く房総半島でも灰が積もったという。江戸期の噴火だったこともあって、多くの資料が残されている。
噴火は宝永地震からは49日目のこと。地震と噴火の関連が強く示唆される。
歴史の中の12月16日
▼1773年 ボストン茶事件
アメリカがイギリスの植民地だった時代、アメリカでの独占的な茶販売権を認めるイギリスの茶税法に反対して、ボストン港に停泊中の東インド会社の船から紅茶を箱ごと海に投棄した事件。アメリカ独立革命の象徴的事件のひとつとされる。
▼1932年 白木屋デパート火災
東京日本橋の白木屋(しろきや)百貨店の4階おもちゃ売り場から出火。火はセルロイド製のおもちゃなどに激しく燃え広がった。当時の消防車は4階以上の高さへのg放水ができず、上の階へと追い上げられていった人の中には飛び降りて死亡した人が少なくなかった。
当時の新聞でズロースをはいていない和装の女性が、着物の裾を気にして転落死した話を伝えたことから、下ばきや洋装が普及する一因になったとも言われる。
▼1941年 戦艦大和完成
1937年、呉海軍工廠のドックで起工した戦艦大和が、当初1942年6月15日完工の予定を半年繰り上げて竣工した。太平洋戦争が始まって8日。翌年2月には連合艦隊の旗艦となるが、戦争後期になるまで実戦を経験することはなかった。
▼1944年 バルジ大作戦
ノルマンディー上陸作戦から3カ月後の1944年9月、ベルギーのアントワープに達していた連合国軍に対して、雪の深まる時期を見計らってドイツ軍の反攻作戦が始まる。アルデンヌの森に新鋭戦車を装備したドイツの機甲師団を結集し、アメリカ陸軍を主力とする連合軍側に大きな被害を与えたが、天候の回復によって連合軍側の空爆(戦車は飛行機に弱い)と、孤立していた連合軍側への空輸が再開され形勢は逆転した。
▼1988年 十勝岳噴火
12月に入ってからごく小規模な噴火を繰り返してきた十勝岳が、降灰を伴う小噴火を始める。18日以降、翌年3月にかけて、火砕流、火砕サージ、マグマ水蒸気噴火、火柱、噴石、降灰が続く。
▼1997年 ポケモンショック
テレビアニメ「ポケットモンスター」の放映中、激しいストロボ様の点滅によって、視聴していた人が体調不良を起こした事件。光過敏性発作と考えられ、この事件の後、アニメでのストロボ効果が避けられるようになった。また「テレビを見る時は部屋を明るくして見てね」など注意喚起が行われるようになった。
▼2011年 野田首相が「収束宣言」
東京電力福島第一原子力発電所事故について、原子炉の冷温停止を実現したとして、原発事故の「収束宣言」を行った。この宣言の余波も含めて、内政の混乱状態から脱することのできないまま、ちょうど1年後の2012年12月16日には、衆議院議員選挙で敗北したのを受けて、総理退陣を発表することになる。
この日が誕生日
◆1866年 ワシリー・カンディンスキー
ロシア出身の画家。フランス・ドイツで活躍した。抽象絵画の先駆者だったが、ナチス・ドイツ支配下のパリでは弾圧を受け、作品の展示まで禁止された。
◆1877年 野村吉三郎
和歌山県出身の海軍大将、外交官。1941年1月からは駐米大使として、ルーズベルト大統領の国務大臣コーデル・ハルとの間で、戦争回避のための交渉を行う。しかし、米国上層部の日本への姿勢は一切の譲歩を排除するものであり、日本国内の主戦派の勢いを抑止することも出来なかった。
戦後は日本ビクターの社長に就任した。
◆1884年 北村西望
長崎・島原出身の彫刻家。「信念にもゆる天草四郎」「怪傑日蓮像」「将軍の孫」そして「平和祈念像」
◆1917年 アーサー・C・クラーク
イギリス出身のSF作家。「都市と星」「2001年宇宙の旅」「宇宙のランデブー」など。静止衛星のアイデアやクラークの三法則でも知られる。
◆1927年 平田昭彦
特撮映画を代表する俳優。日本統治時代の朝鮮のソウルに生まれ、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、旧制一高を経て東京大学法学部に学ぶ。「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」など初期の怪獣映画、「ウルトラマン」の岩本博士役など、特撮物には欠かせない存在感のある役者だった。
◆1938年 望月三起也
横浜出身の漫画家。「秘密探偵JA」「ワイルド7」など。
◆1946年 石倉三郎
香川県小豆島出身のコメディアン、俳優。レオナルド熊とコンビを組んでコメディアンとして活躍した後、現在は俳優として活動。小豆島の観光大使も務める。
◆1949年 森田健作
大田区久が原出身の俳優、タレント、千葉県知事。本名は鈴木栄治。
この日亡くなった人たち
1903年 落合直文
宮城県気仙沼出身の国文学者、歌人。与謝野鉄幹・晶子、北原白秋、石川啄木らが参加した文芸雑誌「明星」を支援。創刊号に投稿した次の歌は、「恋人」という言葉を初めて使用し、また広めたものとして有名。
砂の上にわが恋人の名をかけば 波のよせきて かげもとどめず
引用元:落合直文が明治33年に文芸誌「明星」創刊号に寄稿した歌
・1907年 浅井忠
現在の千葉県、佐倉堀田家の家臣の家に生まれた明治時代を代表する洋画家。アントニオ・フォンタネージに学び、卒業後は明治美術会をリードした。
印象派風の画風を日本にもたらした黒田清輝の白馬会の画風と比較して、浅井ら明治美術会の画家たちは「脂派」と呼ばれることもあった(黒田らは「外光派」)。
安井曽太郎、梅原龍三郎など後進の育成にも力を尽くした。
・1945年 近衛文麿
藤原五摂家の1つ、近衛家の第30代当主。3度にわたり首班指名を受け内閣を率いた。第一次近衛内閣では盧溝橋事件から日中戦争が勃発し、以後第三次内閣で東条英機に内閣を受け渡すまで、日本が戦争へ進む時代の代表的な政治家の1人だった。
戦後、憲法改正に携わるべく運動したが、A級戦犯として裁かれることが決定したのを受けて、青酸カリによる服毒自殺を遂げた。
・1968年 双葉山
双葉山定次は大分県宇佐郡出身の横綱。不世出の横綱、相撲の神様などと称えられる大横綱。69連勝は相撲史に輝く大記録。
幼少の頃から家業を手伝い、米俵を2つ両肩に抱えて駅館川(やっかんがわ)を歩いて渡る姿がよく見られるなど、地元には幼少期からのエピソードが語り継がれている。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名されたという。
・1980年 カーネル・サンダース
ケンタッキーフライドチキンの創始者。
・1988年 小磯良平
神戸生まれの画家。東京美術学校(現在の東京芸大)西洋画科では、猪熊弦一郎や荻須高徳らが同級だった。フランス留学からの帰国後は新制作派協会の結成に加わる。戦後は東京芸大で後進の指導に努めた。
・1993年 田中角栄
新潟県出身の政治家。高等小学校卒業後、東京に出る。その後、出征するが病気により除隊。建築士となり田中建築事務所(後の田中土木工業)を開設。理化学研究所の幹部と知り合い、その交流の中で原子力も含む科学技術の知識を蓄積する。戦後には国政に打って出て第22回衆議院総選挙では落選するが、1947年の第23回衆議院総選挙で当選を果たす。
以後、岸改造内閣で郵政大臣、自民党政調会長、第2次池田内閣で大蔵大臣、佐藤政権では幹事長、さらに通産大臣をつとめ、佐藤はから分裂する形で田中派を独立。ポスト佐藤内閣では、佐藤が支持していた福田赳夫を総裁選で破り、田中内閣を成立させる。
田中角栄といえば「日本列島改造論」と金権政治とのイメージが濃密だが、外交では日中国交正常化の他にも、エネルギー分野を中心に米国追従を改める独自路線を打ち出した。その活動の最中、第一次石油ショックに見舞われる。さらに立花隆らによる金脈追求があって1974年12月、内閣総辞職。
総理を退いた後も最大派閥の領収として大きな影響力を維持していたが、1976年にはロキード事件が発生。ロッキード社による航空機売り込みに関する受託収賄罪ならびに外国為替・外国貿易管理法違反で逮捕される。以後も選挙ではトップ当選を続け、離党したというものの自民党内に大きな影響力を持ち続けた。
しかし1987年には自身の派閥を母体に、竹下登が経世会を旗揚げする。田中派の議員のほとんど(二階堂進らを除く)が参加し、田中はは分裂。さらに1992年、その経世会も分裂し、派閥を出た小沢一郎、羽田孜らによって支えられた細川護熙を首班とする非自民8党連立内閣が成立。田中角栄は55年体制が崩れたとされた4カ月後に亡くなった。