1945年12月9日、占領軍の方針により太平洋戦争中の歴史を伝える宣伝放送「眞相はかうだ」のラジオ放送が始まる
「眞相はかうだ(真相はこうだ)」は、敗戦の年の1945年12月9日からNHKが10回にわたって放送したラジオ番組。太平洋戦争中、いわゆる「大本営発表」によって国民には実際の戦況が伝えられてこなかったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領方針の一環として制作された。
「眞相はかうだ」の放送後、同様の番組は「眞相箱」「質問箱」など再編されながら1948年まで放送された。1946年にラジオ放送された「眞相箱」を採録した書籍「眞相はかうだ」(混乱を招くタイトルですが…)を見ると、本編は例えば、「昭和17年4月18日の第一回東京空襲の真相を知らせてください」「そうですね、真珠湾では相当な打撃を受けたことには受けたんですが、アメリカの軍隊はすぐに仕返しをしなけりゃいかんと思ったんです」というように、一般聴取者の質問に答える形で構成されている。
トビラ裏に「真実こそ如何なる国家にとっても最も強い同盟国である」と極太文字で記されているのも物々しい。
日米開戦の緒戦となった真珠湾攻撃に関する部分を以下に一部引用。
『真珠湾攻撃に関する詳しい真相をお願い致します』
昭和16年12月8日月曜日、まだ夜明けには遠い頃でありました。日本の二隻の大型航空母艦は駆逐艦の護衛を受けながらオアフ島に向かって進んでいました。その頃、このオアフ島の真珠湾にはそんなこととは夢にも知らぬアメリカ太平洋艦隊の大部分が、静かに錨を下ろしていたのであります。
まだ夜の明けない海上一帯は暗いとばりに包まれていました。海上数マイルのところで我が艦上機は一機また一機と航空母艦の甲板を離れて飛び立ち、東北方から真珠湾目がけて襲いかかったのであります。
公式宣戦の布告はなく…また何らの警告も与えることなしに…我が戦闘機は突如として飛行場に低空から攻撃を加えたのであります。爆撃機と雷撃機は高空から急降下して襲いかかりました。こうした我が攻撃は、全く何らの反撃に遭うこともなく行われたのであります。
我が攻撃は迅速かつ猛烈を極め、2時間の間にアメリカ太平洋艦隊とハワイの陸軍航空隊前部に甚大なる損害を与えました。すなわち我が軍はアメリカの艦船86隻に攻撃を加えましたが、この中には戦闘艦8隻、巡洋艦7隻、駆逐艦25隻、潜水艦5隻が含まれていました。そしてそのうち撃沈もしくは使用不能に陥らせたのは戦艦はアリゾナ、オクラホマ、カリフォルニア、ネブラスカ及びウエスト・ヴァージニア号の5隻…
(中略。以下アメリカ軍の被害状況が克明に記される)
…この攻撃によってアメリカ側の出した死傷者は次の通りでありました。まず海軍及び海兵隊では将兵2,117名が戦死し、960名が行方不明となり、876名が負傷したが生命に別条はありませんでした。一方陸軍の死傷者について申しますと、将兵226名が戦死または致命傷を負い、396名が比較的軽傷を蒙ったのであります。
日本の航空母艦の数が少なくカウントされている点など史実と異なる点も見られるが、「我が軍」という表現を「日本軍」に置き換えると、ほぼ全文がアメリカ側の視点から描かれていることがわかる。
「眞相はかうだ」についての評価はさまざまだが、公正な情報というものの難しさを示すひとつの事例として、ここから得られる教訓は少なくないだろう。
歴史の中の12月9日
▼1915年 三毛別羆事件発生
北海道苫前郡三毛別(さんけべつ)の開拓農民の集落で、エゾヒグマにより開拓民8人が死亡、3人が重傷を負う凄惨な獣害事件が発生する。
▼1986年 フライデー襲撃事件
ビートたけしとたけし軍団のメンバー11人が講談社の写真雑誌「フライデー」編集部を襲撃。たけしらは住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で逮捕された。
▼1995年 白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に
ベルリンで開催された第19回世界遺産委員会で、岐阜県大野郡白川村の白川郷と富山県南砺市の五箇山の合掌造りの集落が世界遺産に登録された。
この日が誕生日
◆1842年 ピョートル・クロポトキン
ロシアの革命家、思想家。マルクス主義・ボリシェヴィキ革命に対して反権威主義による革命、アナーキズム(無政府主義)を唱えた。
◆1889年 井上成美
宮城県出身の軍人、最終階級は海軍大将。米内光正、山元五十六とともに海軍の左派トリオと呼ばれ、ドイツとの同盟に反対した。1944年には海軍次官に就任し、終戦に向けて水面下での活動を進めた。
◆1891年 長谷川潔
横浜に生まれフランスを舞台に活躍した版画家。古い銅版画技法メゾチントを復活させたことで知られる。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られた。
◆1894年 浜田庄司
川崎生まれの陶芸家。若い頃から柳宗悦、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎らと親交を持ち、栃木県益子町で作陶に専念する。民芸運動に熱心に取り組んだ。
◆1947年 安彦良和
北海道紋別郡出身のアニメ監督、イラストレーター、漫画家。「機動戦士ガンダム」にはキャラクターデザイン・作画監督として携わった。
◆1950年 綾小路きみまろ
鹿児島県出身の漫談家。人呼んで中高年のアイドル。
◆1953年 落合博満
秋田県出身の元・プロ野球選手、プロ野球監督。現役時代には日本プロ野球史上唯一となる三度の三冠王を達成。2年連続50本塁打も記録した。
◆1959年 春風亭昇太
静岡県(旧・清水市)出身の落語家。城郭めぐりでも有名。
◆(不明)ケロロ軍曹
吉崎観音の漫画「ケロロ軍曹」の主人公。地球時間での誕生日は12月9日とされるが、年齢は10,500歳以上。
この日亡くなった人たち
・1916年 夏目漱石
現在の新宿区喜久井町出身の小説家、英文学者。
未完の絶筆「明暗」のラスト。
この時下から急ぎ足で階子段(はしごだん)を上(のぼ)って来る草履(ぞうり)の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻(さっき)とは違った下女がそこへ顔を出した。
「あの浜のお客さまが、奥さまにお午(ひる)から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」
「お供(とも)しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様(だんなさま)もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。
「ありがとう。時にもうお午なのかい」
「ええただいま御飯を持って参ります」
「驚ろいたな」
津田はようやく立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、云(い)い損(そく)なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「あなたはいつごろまでおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。宅(うち)から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室(へや)に帰った。
――未完――
・1957年 下村宏
日本の官僚、朝日新聞社副社長、日本放送協会会長、政治家。終戦を実現させた鈴木貫太郎内閣で情報局総裁を務め、ポツダム宣言受諾の実現に奔走。終戦の詔書をラジオで放送した玉音放送(天皇の肉声をレコードに録音したものの放送だった)では、前後に言葉を述べたという。
・1989年 開高健
大阪出身の小説家。壽屋(サントリー)宣伝部員だったことも有名。「裸の王様」「輝ける闇」など。釣り、食、酒に関するエッセイも数多い。「オーパ!」