原発事故から3年8カ月経過した今、改めて聞いた話

事故原発から30キロほどの距離にある福島県の町で、地元の人達と昼食会を共にした時のこと。隣の席のおじさんが自宅周辺の線量の話をしてくれました。

「普段は0.2以下のことが多いんだが、時々2.0を超えることがある。2.0だよ。結構な数字だよ。今でも出ているんだろうなあ。仕方ないんだろうなあ」

数字はマイクロシーベルト毎時。その町の空間線量は少しずつ下がって来ていて、最近では0.1前後のことが多いのですが、山の近くとか場所によっては少し高い場所も点在しているようです。それでも1.0を超えるところは相当高い。しかも、日によって数値が10倍も変動するというのです。

「俺たちはもう年寄りだから仕方がないかなあと思うんだよ。でも2.0を超えるっていうのは高いよなあ」

食事会でにこやかに話してくれるその表情とは裏腹に、きっとたくさんのストレスを感じながら、それでも生まれ育った町に残る選択をしたことについて複雑な思いがあるのだと、事故から3年8カ月が経過したいま、地元の苦労に改めてふれた思いでした。

セシウムに種類があるとか、いやそれ以前にセシウムなんて言葉も知らなかったもんな

震災で町がたいへんなことになった数日後、突然バスに乗って避難するように告げられて始まったこの町の放射能被害。震災が起きたその年のうちから、地域の人達と話をすると「放射線量」のことと、「東京電力の社員」の話が繰り返し語られてきました。

線量については「セシウムに134と137があるなんて、そんなこと全く知らなくても暮らしてこれたんだよ。それが今ではいろいろ勉強したおかげで賢くなっちゃって。この年になってこんな難しいことを勉強するとは思わなかったなあ」といった話を何人から聞いたことか。

そして東京電力についても、繰り返されてきたのはこんな話です。

「原発は全部やめにしてほしい。事故後の東京電力の対応にもいろいろ言いたいことはある。でもな、原発で働いている東電の社員や関連会社の人達には感謝しているよ。たいへんな状況の中でしっかりやってくれていると思っている」

話を聞いた町に限らず、福島県の浜通り地域で発電所は、事故以前から主要な産業となっていました。東電の社員や関連企業で働く人を合わせると、町の住民の何分の1かの人たちが、原発で働いてきたといいます。

誰かがやらなければならない「止めるため」の仕事

食事会では、朝夕の道路の渋滞の話から、原発で働く家族や知人の話になりました。

「うちの孫娘は福島第一で働いていたんだが、いまは第二に転勤になった。それで、土日は夜勤なんだ。外からの応援で来ている人たちはたくさんいるけれども、土日とか夜勤とか手薄になる時間帯は地元の人が多いらしいよ」

「うちの親戚の子は事故後すぐに異動になった。事故から2週間くらいの間にかなり被曝したもんで、もう原発では働けないってことになったんだ。いまは関東の方の火力発電所にいるよ」

そんな話が、ごくふつうのことのように語られるのです。

吉田調書の公開などで、事故後の原発の厳しい状況については広く知られるようになっていますが、被爆を承知の上で現場で働いていた人たちについては、具体的な話はなかなか聞かれません。

もしかしたら、親族や知人にも、現場の詳しい状況は知らされていないのかもしれません。しかし、自分の身内が原発の暴走を喰いとめるために命がけで働いたこと、今も収束のために働いていることは紛れもない事実。「このおじさんの孫娘さん」とか「この人の親戚の方」という漠然とした想像しかできないことに、何とも言いようのない罪悪感すら感じました。

「東電社員」とか「関連企業社員」といった言葉に顔や名前が感じられなくても現実はそうではないのです。

食事会でたくさんの話を聞かせてもらって別れた後、ふと思ったことがあります。おじさんたちが原発で働く身内の人達の話をしてくれたのは、よそからやってきた自分たちが東電をバッシングする話を軽はずみに始めないように予防線を張ったのかもしれないと。原発はやめてほしいという点では同じ考えであったとしても、そこで頑張っている身内の非難につながるような話は聞きたくないと、きっと思うのではないか。

原発事故から3年8カ月が経過した今も、事故直後と同じような話を繰り返し語られているということを多くの人に知ってもらいたいと思います。原発事故について議論することの難しさは、ずっと変わっていないのです。短絡的に理解しようとしてはならないと改めて思います。

たとえばセシウム134が半減以下になったからといって、原発事故の困難がそれだけ減少するものではないのです。