関東大震災では、家族、家財、職場などが一瞬にして失われ、さらに多くの人々が大火災によって焼け死んでいく中、残虐な行為が数多く発生した。そのうちきわめて重大なのが、震災を契機に朝鮮人が暴動を起こす(あるいはすでに起こしている)という流説と、それを真に受けた自警団による朝鮮人の惨殺行為の横行だった。
自警団等による虐殺の被害者数や実態については不明な点も多いが、時事新報社が震災の3カ月後に発行した「大正大震災記」の記事の内容を紹介する。
言葉遣いや表記を現代語に改め、一部に句読点等を補ったほかは、ほぼ原文そのままを引用した。「鮮人」「不逞鮮人」「支那人」など不適切な用語や、遺体を「個」で数えるような人道上許されない言葉づかいのまま引用したのは、ひとえに当時の記事の内容とニュアンスを伝えるためとご理解いただきたい。
鮮人の暴行と自警団 =善良な鮮人も見境なく惨殺された=
震災に際し鮮人の暴行は盛んに宣伝されたが、その筋の調査した所によれば一般鮮人は概して順良と認められ、一部に不逞の徒あって幾多の犯罪を行った。そして別稿掲載のほか治安警察法違反、窃盗、横領等で起訴された鮮人23名、放火、毒薬、爆弾、掠奪、凌辱等の嫌疑で東京及び横浜で捜査中のもの多数ある。
右不逞鮮人の暴行はたちまち罹災民の恐怖心理より誇張して関東一帯に流布され、通信途絶のため地方警察官にもこれを信じて所在青年団、在郷軍人団に防衛方を訓示したものもあって、災害地を中心として随意に鮮人殺害の惨事が行われた。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
記事冒頭のリードに当たる部分。朝鮮人による犯行を一部認める記述から、報道規制が解除された10月21日以降に書かれた記事と考えられる。しかし、震災後数カ月で、事件の全貌が客観視できるまで整理されるような状況でなかったことは明らかだろう。
以下の各論では、流言の発信元とされた横浜から、短時間のうちに流言が、そして流言とセットになった惨殺行為が広がっていく様子が描かれていく。まるで現場の状況を見てきたかのように。
殺伐の空気が漲った横浜全市 =流言に激昂=
流言の出所と思われる横浜市では、1日午後石川山で鮮人が井戸に毒を投じて、避難者5名の毒殺を企てたとか、あるいは根岸方面では婦人に暴行を加えた上惨殺したの、残存家屋には片っ端から放火するなど、さながら暴行の現状を見たような流言に、避難民中の男子は極度の反抗心を起こして、青年会が率先自警団を組織して、同夜早くも鮮人を殺せの声が挙げられた。竹槍、抜き身や日本刀、銃剣その他のあらゆる兇器を引っ提げ、喊声をあげながら馳せ廻った。
注:喊声(かんせい)おたけび
かくて1日夜から4日頃までには、市内各所に多数の鮮人惨殺が行われたのである。当時無警察状態のため流言の真相を究めえなかったため、この暴挙を見るにいたったもので、わずかに残っていた警察官はこれを保護し、とり敢えず750名を華山丸に収容し、そのうち150名は総督府の桜丸で挑戦へ送り、残る600名は騒擾の鎮まると同時に上陸せしめて、それぞれ労働に従事せしめたが、この騒擾裡に多数の鮮人が殺害された。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
自警団が手にした武器と、警察からの呼びかけ
自警団について具体像を描くために少し寄り道する。
警視庁が震災2年後にまとめた記録に掲載された写真には、軍刀、脇差、猟銃、長刀、袖絡など多種多様な兇器が並ぶ。ステッキ状のものは仕込み杖かもしれない。普段は気の好い店主や町の兄ちゃんだった人たちが、こんな凶悪な物を手にして神楽坂辺りを駆けまわり、目を付けた相手を片っ端から誰何していたのである。
そんな状況を「大混乱の中だったからこそ起きた特殊な狂気的状況」といった言葉で片付けてはならない。
先に述べた通り、電信は地震の揺れでほぼ壊滅し、もちろん電話も不通。活字印刷だった新聞などの媒体は、活字が散乱したり火事で融けたりで利用不能。口コミ以外の情報はほぼ完全に失われていた。
上記の記事は、そんな状況の中で東京の記者がわざわざ甲府まで行って大阪の系列新聞社に短信を送ったことを示している。
目黒と工廠の火薬爆発
【早川東朝社員甲府特電】
▼朝鮮人の暴徒が起こって横浜、神奈川を経て八王子に向かって盛んに火を放ちつつあるのを見た
▼震源地は伊豆大島三原山の噴火と観測されているが他にも太平洋の中央にも震源があるらしい
▼砲兵工廠は火薬の爆発のため全焼し、目黒火薬庫も爆発した
引用元:Osaka-Asahi Shinbun (September 3, 1923)
砲兵工廠と目黒火薬製造所が火災でほぼ全焼した以外は完全な誤報。いや、ありもしないことを伝えたわけだから虚報というべきか。
しかし、情報が途絶した被災後しばらくの間は、たとえ出所が不確かな伝聞の噂話であっても堂々と新聞に掲載さた例は少なくないという。いったん印刷物として出回ると、流言飛語の類でも正しい情報と誤認されてしまう。
そこが極めておぞましい。
政府は流言の広がりへの対策として、次のようなビラを配布した。
注意!!!
有りもせぬ事をいいふらすと.処罰されます。
朝鮮人の狂暴や、大地震が再来する、囚人が脱監したなぞと言伝えて処罰されたものは多数あります。
時節柄皆様注意して下さい。
警視庁
引用元:関東大震災の注意ビラ 警視廳 | 江戸東京博物館所蔵
ひとり残らず殺せとふれ廻った =神奈川鶴見=
広まる流言と、エスカレートしていく自警団。その様子を「大正大震災記」は次のように伝える。
神奈川方面では2日朝から流言伝わり、子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し「朝鮮人はひとり残らず打ち殺せと、ただいま警察から命令が出ました」と、わざわざ生麦方面まで触れ廻ったほどで、このため恐怖の町民は奮い立ち、2、3、4の3日間に50余個の鮮人惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された。
鶴見警察署管内、潮田方面の鮮人200余名は地震と同時に津波来襲の噂に怯え、隊を組んで総持寺に避難したので、所轄署はとくに注意を加えていたところ、2日午前10時頃から鮮人暴動騒ぎが伝えられたため、附近住民は武装して鮮人を駆逐することに努め、その勢い漸次悪化した結果、警察は支那人70名、鮮人326名、計396名を署楼上に移したが、町民のために襲われた鮮人負傷者は続々として半殺しの体で担ぎ込まれ、その数33名に及んだ。鮮人死体はこの方面で78個発見された。
東京の鮮人騒ぎがそれから以後のことで、至る所自警団ができて、誤殺されたものもある。一揆的に多数をたのんで暴行した例はあまり聞かない。ただ日本人で自警団と言葉争いから酷い目にあったものは少なくない。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
日本刀を肩に担いで隣町まで自転車を走らせながら、「ひとり残らず打ち殺せと、ただいま警察から命令が出ました」と触れて回る青年の姿を思い浮かべてぞっとしない人はいないだろう。しかも地震による揺れでほとんどの建物が壊滅したという横浜でのことだ。
「至る所自警団ができて、誤殺されたものもある」という表現も怖ろしい。殺された人には名前も家族もあったはずだろうに「ものもある」とあいまいな言葉で言い捨てられている。しかも、誤殺というのであれば、誤りでない殺害があることになるが、それはどういうことか。震災からおそらく2カ月ほど。記事が書かれた時点では、震災直後の殺伐とした空気が色濃く残っていたということなのだろうか。
留置場を襲って23名鏖殺 =埼玉の惨劇=
見慣れない言葉が登場する。「鏖殺」。これは「おうさつ」と読んで「皆殺し」を意味する。東京の事例をほとんど素通りした後、記事は埼玉に入って、皆殺しが頻発した様子を伝える。
埼玉、群馬両県下における暴動は最も激烈を極め、中山道本庄町では、同地警察署内に保護を加えていた鮮人32名が生命を全うしているを憤慨し、後送されてきた鮮人32名の労働者を神保原郵便局前十字路で虐殺し、のこり65名が危うく逃れて本庄警察署に入るのを見て、賀美、神保原両自警団と協力殺害し、同署演武場内に留置中の前記32名も抜刀の壮漢のため鏖殺された。かくて全部の死体は行路病者として5日朝、町営火葬場で荼毘に附した。その間持磯本庄警察署長は六本木派出所に潜伏していた。
さらに9月4日午後7時頃、12名の警官に護衛された58名の鮮人が、東京から高崎に向かう途中、熊谷本町通に辿り着くや、同町の消防組を中心とする自警団員、若者らは日本刀、こん棒、竹槍等を携え、喊声を挙げて一行を襲撃し、熊谷町附近まで追跡し58名全部を惨殺した。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
警察署内に保護されていることに憤慨した自警団が署内に押し入り鏖殺。
その間、警察署長は派出所に逃れていた。
記事本文では、「演武場内に留置中」なのが見出しでは「留置場」となる。
熊谷では警官に護衛された58人が市内で襲撃され全員惨殺。
91年も昔に起きた残忍な出来事を繰り返してはならない。そのための第一歩は、「もはや現在の日本では、そんなことは起こるわけがない」などと思考停止しないことだ。
残念ながら「大正大震災記」の朝鮮人虐殺に関する記事は、この部分以降きわめて判読が難しいので、別の一冊を紹介する。「大正大震災記」とは異なる視点にはっとさせられる。
書名は「大正むさしあぶみ:大震災印象記」。劇作家の川村花菱と画家の山村耕花が災害地を歩き、出会ったことや印象を9月から報知新聞に連載したもののようだ。その中から、「(十八)自警団」。
「大正むさしあぶみ」より
震火の災につづく恐ろしさは鮮人来るの流言であった。恐怖の中に盗賊どもが横行し、幾多の流言が人心を脅かしたことは、今も昔も変わりがない。位牌を入れた長持ちを金と思って盗み去り、ぬか俵を米と思いよぎったなどは普通だが、酔漢を長持ちに入れたものを盗み去り、盗人は幽霊と思って驚き逃れ、中の酔漢は家を失ったと泣き叫んだなどは悲惨の中の滑稽である。
文化は自警団を生んだ。町内の八百屋酒屋の大将は、竹ヤリをかいこみ、源水のような日本刀をたばさんで、生まれてはじめて得た権利を、いやが上にも利用して、ろうづにしまいという心事が遺憾なく現れていた。
彼らは通行の人々を、でたらめにひっ捕らえた。みな鮮人だと思った。帽子もかぶらずにぶらりと出た兄貴をさがすといっている若者は、行く先が答えられないという理由で鮮人として交番に連れられた。
うすあばたのある、北陸ナマリの男は、交番の中で、命がけにふるえていた。額のまんなかに、怖ろしい青筋が太く脈を打っていた。あわれ、その男は、生まれながらのどもりであって、言おうとすれば、それだけどもった。人々はますます怪しんだ。
静岡辺の自警団は怪しと見れば「君が代」を歌わし、私の近所は都都逸を歌わした。
不逞鮮人がいました! 都都逸を歌えといったら、日本のですかってぬかしやぁがった……
あるものが私にいった。落語気分は、こうした中にも至るところに漂っている。
引用元:「大正むさしあぶみ」川村花菱 山村耕花
新聞記者の目線とはまた違い、川村花菱は劇作家で演出家ということだからか、ご近所の八百屋や酒屋の店主が流言恐ろしさに生まれて初めて武装して、せっかく武装したからには遺漏なく取り締まろうという姿が活写されている。
これはいわば内側から見た自警団の実像だ。
ダジャレ好きの町のオジサンが若者たちと自警団を立ち上げる。立ち上げるのは延焼を免れた山の手方面の町々だ。大震災で大混乱なんだから町のみんなを守らなければ。自警団立ち上げの目的は真っ直ぐだ。だってそんな腹黒い人たちなんかじゃない。ごくふつうの町のオジサン、お兄さんたちなのだから。
日本人かどうかを確かめるために君が代を歌わせたという話は、多くの資料に出てくるが、都都逸(どどいつ)を歌わせたという話は落ち狙いだろう。都都逸をドイツにかけて「日本のですか?」。一方ではそんな落語気分を失わない、ふつうの町の人たちが竹ヤリや日本刀で惨殺行為を行っていた。
そう考えると別の恐ろしさが湧いてくる。自警団員として惨殺、鏖殺に手を染めていたのは、何か特別な類の人たちではなく、自分の隣に住んでいる人。もっと言うなら、自分もその一員として参加していてもおかしくなかったかもしれないのだから。
朝鮮人惨殺事件の闇は深い。遠い過去の物語ではない。もちろん他人事でもない。