高村薫さんが語った「妄想から覚める劇薬」
5月22日の毎日新聞に掲載された作家・高村薫さんのインタビュー記事に、次のような一節があった。
高村さんは視線を落とし「最悪の想定ですが、集団的自衛権が必要という妄想から覚める劇薬はある」という。
集団的自衛権行使が認められれば、米国の戦争に日本がコミットする機会が必ず来る。そうなれば自衛隊員に戦死者が出る。あるいは自衛隊員が他国の兵士らを殺害する。戦後初の事態に多くの日本人から拒否反応が出るだろう。「ここでやっと妄想から覚める。集団的自衛権で得たものは何もない、戦死者を生んだだけだ、と」。苦しそうに表情をゆがめた。
右肩下がりで生活も年金も不安だらけで、自分のことで手一杯。そんな中、アベノミクスという妄想、そして集団的自衛権の解釈改憲という妄想がまかり通っている。第一次大戦後の莫大な賠償金にあえぐドイツの民衆がナチスの妄想に吸い寄せられたのと同様の妄想から覚めるための劇薬――。「死」
戦死者が出たり、日本人が他国人を殺害する事態に直面した時、果たして本当に妄想から覚めることができるのか。高村さんを批判するわけではないが、見通しは暗い。贔屓目に見ても五分五分、いや八分二分以下だと思う。
空気は徐々に悪くなっていく。窒息死しない程度にゆっくりと。そしてその空気を呼吸しなければ人間は生きていけない
「今なら戦争はよくないって言えるよ。しかしだなぁ、当時はすでに戦時下だったわけだよ。学校を卒業して、さてどんな仕事に就くかと考えた時、軍隊に入るというのは自然な選択だった。戦争に行ってこの国を守る。だって勝つか負けるかなんだもの。負けるわけにはいかないでしょう。自分の国の人たち、故郷の人たちを守らなければ。だから、よしっ! 俺も行くぞって気持ちで海軍に入ったんですよ」
昭和19年、旧制商業学校(旧制中学、現在の高等学校にほぼ相当)を卒業し、航空機搭乗員を育成する予科練に入隊。内陸部に造られた秘密の訓練基地で特殊飛行機のパイロットとなるための訓練を続けながら翌年夏の終戦を迎えた。戦時下に当たり前だった死生観や戦争観を、いまの人たちに説明するのは難しいと言う。
太平洋戦争が終わって20年ほど後に生まれた僕は戦争を知らない。しかし、父母の世代は戦争を生き抜いてきた。お盆などに田舎の親戚の家に行くと、戦争中の話をいろいろ聞かされた。高い高い空を飛ぶB29爆撃機に、小さくてのろい日本軍の戦闘機が体当たり攻撃する様子。満州からの引き揚げがいかに大変だったか。全財産を失った上、引き揚げ船に乗る前には素っ裸にされ体の隅々まで検査されたこと(宝石や貴金属を肛門などに隠していないか調べられたという話)。軍隊では言葉より先に鉄拳が飛んでくるのが当然だったこと。ケツバットはまったく手加減なしで、尻が腫れて「気を付け」ができないほどだったこと(そしてまたケツバットだ)。
小学生向けに少し脚色された話を聞きいた後、必ず従兄たちと一緒に質問する。
「なんで戦争に反対せんかったん?」
返ってくる答えは断片的で、しかも歯切れが悪かった。
当時は大陸に渡るといい暮らしができるって言われとったけね。亡くなったおじさんも満鉄(南満州鉄道)で、向うじゃ羽振りが良かったんよ。
戦争反対とかそんなこと言うたら非国民て言われて、もう生きていけんかったやろ。
特高(思想犯などを対象とする特別高等警察)にしょっ引かれたら、五体満足で帰ってくることなんかできんかったけね。
まあ、そういう時代やったけしょうがないんよ。
もしも戦争になったら、家族を連れて山に隠れると言う父が、旧制中学卒業前に軍隊に志願入隊していた
やはり小学生だった頃、家族で話題になることが何度かあった。もしも戦争になったらどうする?
小学生ながらに究極の問題だった。学校で戦争のことを教わることも時々あったし、親戚の人たちの話で付けた知恵もあった。戦争になんか行きたくない。軍隊に入って鉄拳制裁なんて堪ったもんじゃない。しかし、戦争にいかなければ非国民と後ろ指差されるかもしれない。行け! と言われて行かなくていいものなのだろうかという、バカみたいに正直な葛藤もあった。しかし父は、しばらく話を泳がせておいて挙句には、必ずこう言い切っていた。
「もしも戦争になって赤紙(軍隊に入隊する命令書)が来たら、家族で山に隠れる。戦争が終わるまで山に隠れて暮らす」
そんなことしたら非国民やん!
「非国民かどうかとかということと、戦争に行って人を殺していいのかというのは次元がまったく違う問題なんじゃ」
家族で山に隠れて暮らす――。その話になるたびに、頭の中は戦争とは別のイメージでいっぱいになってシビれるようだった。食料とか住む場所とかはどうするんだろう。きっと軍隊経験がある父がなんとかしてくれるんだろう。でも学校は? 友だちは?……
もう少し大きくなって、父が旧制中学の4年生か5年生の途中で、繰上卒業扱いで軍隊に志願していたことを知った。視力が低かった父は、希望していた飛行機乗りにはなれず、最終的にはモーターボートに爆弾を積んで敵艦に突入するという特攻部隊に配属された。出陣はついに訪れることがなかったが。
その話を聞いてやはり思った。なんで戦争に反対せんかったん? いまは戦争反対で、戦争になったら山に籠るとか言うとるのに!
その時、初めて教えてくれたのが「空気」のことだった。
解散。志願する者のみ、この場に残れ
文科系の大学生を中心とする学徒出陣が始まったのが昭和18年秋。しかしその半年後には旧制中学の在校生に対しての志願兵募集が行われるようになっていたらしい。
父が通っていた旧制中学にもその時がやってきた。戦局は緊迫の度を増しており、いまや国土を守り国体(国家体制)を護持するために、まさに臣民たる諸君の力が求められているのである、といった訓辞だったかどうかは知らないが、高学年の生徒のみの集会で学校側が志願兵募集を告げた。
昔から陸士や海兵(陸海軍の士官養成学校)に進む先輩が多かった中学だったから、軍の方から少なくとも100人とかの割り当てがあったらしい。
志願に当たっての説明の後、集会は終わる。ただし、こう告げられて。
「解散。志願する者のみ、この場に残れ」
こんな風に言われて、その場を離れることができるか? ほとんど全員がその場に残ってしまったので今度は学校の方が困ってしまい、同様の集会が次の日にもあった。それでも、もう空気が違っていた。非国民だからとか、嫌々ながらとかではない。もう志願するしかない。そんな覚悟みたいなもの。前日の集会の後、空気が変わったんよ。
変わってしまった空気とは、「だって戦時下なんだから。戦争に負けるわけにはいかないでしょう。自分の国の人たち、故郷の人たちを守らなければ。だから、よしっ! 俺も行くぞ」という空気だったのかもしれない。あるいは、昭和18年の出陣学徒壮行会の文部省映画の中で、行進する男子学生たちにスタンドから旗をふる女子学生たちの間にあった空気にも共通するかもしれない。
「殺らなければ殺られる」状況にしないことこそが戦略の枢要に違いないはずだが
以下は仮定の話である。集団的自衛権の行使ということで、たとえば海外に派遣された自衛官が銃弾に斃れた時、「何ということだ。平和憲法を掲げてきた私たちは、直ちに集団的自衛権行使という方針を改め、戦闘地域から撤収すべきだ」という意見もたしかに湧き起こるだろう。
しかし、自衛官の死はテレビでも新聞でも「殉職」として伝えられることになる。悲しみの最中にあっても、命を賭して国に殉じたと称えられるかもしれない。当然、「彼の遺志を継いで」という言葉も登場するだろう。国に殉じた人の遺志を継ぐとは何を意味するのだろうか。
いったん戦闘行為が発生すれば、そこは「殺らなければ殺られる」戦場になる。自衛官の殉職という事態に至ったからには、そこで戦闘行為が勃発している可能性がある。
国に殉じた人の遺志に、殺らなければ殺られるという状況が加わる。
「空気」がつくられる。
国に殉じた者の遺志に報いる、と称する戦闘をきっかけに報復の応酬が捲き起こる。
報復を正当とする空気が膨らんでいく。相手にも大きな被害を与えているだろう。反撃も厳しさを増す。死者=殉国者は増え続ける。報復の手を緩めることは許されないと、国民の中から報復を求める声が上がるかもしれない。
小さな戦闘が予期しなかった大きな軍事行動に結びついていった例は無数にある。仮に突発的な小さな戦闘として終結することができたとしても、報復の連鎖が始まる可能性はある。時間を置いて、場所を変えて、水面下で対立を繰り返しながら、やがて傷口は広がり、戦闘を抑止するハードルは下がり、小さなきっかけで大きな衝突が始まる。
殺らなければ殺られる状況に陥ると、そこからのリカバリーは難しい。そうならないこと、つまり刀を抜かないことこそが、士(さむらい)の本分であり、戦(いくさ)の基本だったはずなのだが。
逆手をとって武力行使できない空気をつくるという道
ベトナム戦争末期のアメリカでも、第一次大戦後期のロシアでも、厭戦ムードの高まりから戦争遂行が困難になったのは、さんざん闘って多くの被害を積み上げた末のことだったことを忘れてはならないと思う。
いま進められている解釈改憲は、拡大解釈された軍事力を政府が手に入れようという動きだ。厭戦の世論とは正反対の、むしろそれを抑えつけようとする方向性を有つ。死者が出ることで「妄想」を否定する世論が捲き起こるという偶発に期待するのは苦しい。
集団的自衛権の閣議決定された後も、「それを行使できない空気」をつくっていくことが大切だ。空気をつくることなら権力とは無縁の僕たちにもできる。はだかの王様以外の99%の人が「戦争はいらない」という意見をともにすれば、最高責任者といえども行使はできまい。
戦争がどのようにして起こるのか、戦争を体験した人の言葉を伝えていくために何ができるのか。力を持たない僕たち個人がどうやって戦争を止めるのか。[空気の研究]のタイトルの下、考えていきます。
(空気の研究という題のこと)
「研究」などと鹿爪らしい言葉を使ったのにはわけがあって、それは空気が目に見えないものだからだ。見えない空気だが、たしかにそれはここにある。ここにある空気を捉えるためには見方の工夫が必要だ。風にそよぐ梢はなぜ揺れるのかとか、水面が波立つ理由を考えるとか、はたまた虹や蜃気楼、ドップラー現象の謎ときとか。直接目にすることができない空気だが、心を砕き、アタマをひねって知ろうとすればきっと見えるはずだ。「時代の空気」というものも同様に。
写真と文●井上良太