産まれながらの五右衛門風呂育ち
私の実家ではいまだに五右衛門風呂が現役で活躍している。
小さい頃から入ってるので風呂とはこういうもんだとばかり思っていた。
家の外に建つおんぼろ小屋、火をくべると立ち上る炎の先には丸い鉄ガマの底。
外壁はススだらけで手を付いた日にはエライ目に合う。
裏山から杉っぱ(杉の枯れた枝)を拾い集め着火剤に。
もちろん薪割もやった。
おっ父、おっ母の見よう見まねで、コツをつかむとスパンと真っ二つに割れる。
それがまた実に壮快で気分がいい。
さらに夢中になって薪を割る。(たぶん親はしめしめ…と思っていたに違いない)
順番に重ねた燃料にマッチを擦って投げ入れると、新聞や杉っぱは勢い良く燃えてあっという間に消えて灰となって落ちる。
細い薪に十分に火が着いたら太い薪をくべて、毎日実益を兼ねた火遊び。
火のゆらめきをを見つめていると時が経つのも忘れてボ~っとしてしまう。
洗い場には古ぼけたタイルが敷き詰められ、真ん中には真っ黒な鉄釜が埋め込まれている。
「となりのトトロ」に出てくるお風呂と言ったらイメージしやすいかも。
底にはぶ厚い木の板で作られたスノコの様なものが沈んでいてその上に足を置く。
沸かし過ぎれば水でガンガンうめて、ぬるくなるとおっ母に薪をくべてもらう。
火をくべながら入るときは真ん中に身を置いて、よろけて釜に触れたらとてもじゃないけど熱くて敵わない。
でも、だんだんに歳を重ねていくと、よその家庭のお風呂は家の中にあると知った。
しかも薪なんて使わないらしい…。
年頃になり脱衣所も満足に無い、家の外にある五右衛門風呂がだんだん憂鬱になってきたのは言うまでもない。
そんな五右衛門風呂が震災のときにあれほど有難い存在になろうとは…!
3月13日にお風呂に入れるという奇跡
女川から子供たち3人を救出し、登米市の実家へ戻るとお祖母さんがご馳走を並べ出迎えてくれた。
ガスで炊いた温かいご飯と具だくさんの味噌汁、野菜のおひたし、野菜炒め…。
テーブルに家族で並んで座り、箸で食事するのは3月11日のお昼以来だ。
驚いたのは子供たちの食べる量。
小学3年の娘と小学1年の息子の食べる早さと量が尋常では無い。
しばし唖然としながら一心不乱に食べる二人に見入ってしまった。
それほど、腹を空かせていたのだ。
そして不安で不安でたまらなかったのだ。
おかわりして食べた量はダンナの倍は軽く超えた。
そんなに食べたことは未だかつて無い。
実家は震度6弱の被害はあれどプロパンガス、農家で米や野菜に不自由しない。
停電はしていたがなぜが我が家ととなり2~3軒は水道が止まらず、近所の人が水汲みに来ていた。
暗くなる前に食事を終えると「風呂沸かしてだがら入れ~」
「?!!」
驚いた、この大震災の混乱の中、お風呂に入れるという奇跡に。
そうだ五右衛門風呂だもん、水さえ出れば火を起こして風呂を沸かせる。
ダンナは津波の中を泳いでいたから、へどろと油の混じったニオイがしていた。
停電しているからと、おっ父が即席でアルコールランプのようなものを作った。
これがまた良くできていて蓋つきの缶コーヒーの中に灯油を入れ蓋を閉め、その蓋に穴をあけて麻のひもを通し火をつける。
灯油が染みて炎が一定に保たれている。
針金で持ち手部分も細工し、ライト代わりに持ち歩いた。
蓋がしてあるので余震で万が一倒れても灯油が飛び散る心配も無い。
久しぶりにおっ父の偉大さを感じた。
ダンナが「本当にさっぱりした!耳の中まで真っ黒だった」と風呂から上がってきた。
私も缶コーヒー型アルコールランプを手に五右衛門風呂へ。
五右衛門風呂、何年ぶりに入っただろう。
薄暗い灯りの中、湯船につかった。
まだ震災から二日目。
五右衛門風呂がとんでもない状況を少しだけ癒してくれた。
どうして髪の毛サラサラなの?
翌日には子供たちを実家に預け、お義母さんと弟の救助に女川へ向かう。
体調を悪くした祖父と祖母をヘリコプターで運び、二人もやっと女川の避難所から私の実家へと移動できることになった。
ガレキの中をかき分け歩き続ける。
自宅が横倒しになった姿を初めて見たお義母さんは言葉も無い。
使えそうなものを探し出しリュックに詰め込んで変わり果てた自宅を後にする。
途中、安否確認の名簿へ記名しに総合体育館へ立ち寄った。
まだまだ食料も水も行き渡っておらず、混乱は続いている。
みな疲れが顔に出始めている。
そこで知り合いのママ友数名と出くわし無事を喜び合う。
互いの状況を一気にしゃべり、一息つくと突然
「なんで那須野さんの髪の毛サラサラなの?」
「あっ…ゴメン、実家が五右衛門風呂で夕べお風呂に入れたの…ゴメン」
「うっそー!?すっげー!!」
すごく後ろめたくて、申し訳なくて小さい声で言い訳を並べた。
みんながお風呂に入れなくなり4日経とうとしていた。
「体はいいけど頭がカユくて!脂ぎってるから触らないようにしてっけどさ~」
すると向こうから「那須野さ~ん!!」と誰かが走って来る。
相手の顔を見ても誰だか判らずキョトンとしていると周囲から大爆笑が起きた。
「ウケル!那須野さんも化粧落とすとあんだのごど誰だが分んないんだっちゃ!」
そう、彼女はいつもお化粧をバッチリ決めているママ友
「スッピンだと誰だか全然わかってもらえないの私!」
おどけた彼女の自虐発言にまたみんなで顔を見合わせ笑った。
それから自衛隊が入り女川にお風呂が設置されたのは何週間も先の事。
2週間入らなかった、3週間入らなかった、頭がかゆすぎて風邪をひくのを覚悟で冷水を浴びたなど…お風呂事情は深刻だったのです。
出来ることなら実家へみんなを連れて行き、五右衛門風呂に入れてあげたい!
でもその為のガソリンが手に入らなかったのです。
並んでなんとか10リッター入れて、女川を1往復するのが精一杯。
そんな日々がしばらく続いたのです。
五右衛門風呂の有難さと、いつでも風呂に入れるという後ろめたい気持ち。
震災時のお風呂にまつわる複雑な思い出です。
那須野 公美