3月1日、岩手県気仙地方の県立高校で卒業式が挙行された。
ニュースとして大きく取り上げられたのは陸前高田市の高田高校。春高バレー優勝、夏の甲子園出場の歴史を有する、郷土の高等学校だ。
2011年3月11日、高田高校は3階建ての校舎の3階天井近くまで浸水し全壊した。生徒の多くは校舎裏の高台にある第2グラウンドから、津波に呑みこまれ破壊されていく自分たちの町と母校の様子を、避難してきた地元の人たちとともに見詰めていたという。
169人にとっては、ここが高田高校
今年、高田高校を巣立っていったのは普通科と海洋システム科の169人。
この生徒たちが高田高校に入学したのは2011年。
震災直後の混乱の中だった。
町が激しく壊された陸前高田。学校が再開したのは5月になってからだった。しかも、大船渡東高校萱中校舎(かやなかこうしゃ:学校再編で使われていなかった)を仮校舎としてのスタート。隣町の大船渡とはいえ、市の中心街を通り越した先にある萱中へは、陸前高田からバスで30分以上かかる。さらに萱中校舎の教室数は高田高校のクラス数より少なかった。1つの教室を2つに間仕切りするようなハード面の不便や、従来の授業や課外活動のやり方を変更せざるを得ないという困難もあったという。
生徒たちが毎朝スクールバスで隣町の仮校舎に向かう中、陸前高田の町では高田高校の再建が進められていた。新しい校舎は旧校舎近くの高台に建設中。体育館は2月には竣工。もしかしたら突貫工事でこの時期に完成させたのかもしれない。
体育館だけではあるが、陸前高田の町で卒業式をあげることは可能になった。
しかし、卒業式の様子を伝えた地元紙などの新聞にはこんな言葉が躍っていた。
「ここが私たちの高高だから」
大人たちは復興を目指して懸命にがんばっている。少しでもこども達のために、という気持ちも強い。高田高校の体育館が2月に完成したのは、せめて卒業式位はという優しさからのことだろう。
しかし、こどもの成長は待ってくれない。大人から見れば「仮」であっても、そこで学園生活を送った生徒たちにしてみれば、そここそが彼ら彼女たちの学び舎だ。
その現実から目を逸らしてはならないと思う。
たとえどんなに復興のためにがんばっているとしても、そうだ。
いま目の前にいるこども達が育っていく環境から目を逸らしてはならない。
そのことを、こどもに向かい合って活動しているたくさんの人に教えられました。この文章の続きとして、東北各地でこどもの環境に取り組んでいる方を紹介していきます。◆東海新報や河北新報に掲載された高高卒業生たちの写真には心が洗われます。
「ここが私たちの高高だから」という言葉は、それだけですでに美談です。
だからこそ、こども達の「いま」に貴方のやさいいまなざしを。
文●井上良太