魂が求めることをしよう

まっすぐで真面目な人って言うのは、この世の中ものすごく騙されやすいよね。


それほんとにわかるよ。

でも、“自分にしかない強み”を持ってる人間はそれに対抗できますからね

才能や人間的資産

あなたでないと成し得ない“価値”はあるんです。


それだけをつよく高めあげるために生きていこう。

それでいいんだよ

その瞳のまっすぐさは、ほかのなにものより ウソじゃない



音楽でも スポーツでもなんでもいい


他人から見たら「それのどこがそんなにいいの?」と言われることでもいいんだ。


あなたが好きなことをする。

魂が求めることを追求するんです。


そこにあなた自身の明日がある。


何かに寄りかかって それをあなたの支えにすれば

ちょっとやそっとのことじゃ、人は倒れないんです。


信じることをやめたらいけない!


それはなんでもそう。


繋いで紡ぐ あなたの力を信じるときです




海外の方から“日本人はまじめでいい”と言われるよね


もちろん人間性とか 古きよき“まじめさ”の文化はそのままでなくちゃいけない。



でも現代人のまじまさや勤勉さって価値観的におかしい


ちょっと“軸がずれているものばかり”なのではと感じるんだ。



まじめまじめが今の時代求められているけど


その“まじめな人々”が一番真面目じゃなく不良なんだもの。


倣え右で出る杭は打ち、率先して先生がいじめを教えちゃってる。


う~んそれは  まもとさではなく  多数決とかね 低俗野比な俗習意識のきわみだと思う。


なぜまっすぐな心や価値観 常識を持った人々が

こんなにももがき苦しまなければいけない世の中になってしまったのか


わたしはそれが一番許せないし不快です



そしてこれもよく言うけど


自分で考え行動できる人になる。


自立のひとつもできていないのに、この国で協調性という概念は成り立たないんじゃないの?

と思うんです。



①信念がないからワラワラ一列に群れてげひゃげひゃ哂う



②立派に己という生き様の名刺を配れるから仲間がいっぱいいる


この二つはまったく対極的。完全に次元が違います




かなりむかし私もちょっとやんちゃだったような頃 汗

不良の幼馴染に、そういうたとえ話をしたことがあったんです


「群れるんじゃなくて
個々に自立できてるヤツらが協力し合ったとき社会って良くなっていくかもしれないよな」


そしたらそいつ「それは集団の為に?」


と疑問系でこっちに意味を聞いてくるんですが

だからそうじゃなくて・・・ とこころのなかで 笑


彼は私が未熟なりにも考えてた その意味をまったくわかってないようでした。

(思い起こせば本当にロクでもないヤツだった 何もしてない私まで事件に巻き込まれかけて
さんざんだったので 怒って縁を切ってやりましたが。)




そういう意味であまりに相手をかんがみなさすぎる

人の痛みの知らぬ者がおかした事件の話を聞くと


「何一つ悩んだことのないクズばっかりだから世の中はかくも軽薄で変わらない・・・
この俗物どもめが」 と思う。




純粋さって それでいいんでしょうか?

と悩む方がいたからその人に私はこう答えたの。


“純粋なあなたのままでい続けてください。”


たしかに世の中は時として辛く 暗く

まっすぐで光り輝く正統派のものからしたら苦難の道かもしれないが


それでも多くの仲間や 切り拓かれる“希望”はあるよ



正直者はたしかに多くの人にその純粋さで 生きる勇気を紡ぐことができるのですから―。




誰がなんと言おうと

正直でありのままのあなたであることが


このくだらない奴ばかりになった中途半端な現代にとっては


いい救世主っていうか 希望?


みたいな確固としたものになると私は今言うことができる。



だから純粋って言うことは 褒め言葉ですよ。


そんな素直な心を持つ自分を守んなきゃいけない


すくなくてもそういう要素は大切だと思います




この世界の主成分は 理不尽 嫉妬 利己 欲望 でできている。


まっすぐな私たちであればあるほどその事実を信じたくはないけど


それに負けないためにいま確固としてあなた自身の奇跡を打ち立てなくては。


より美しくあるために

より つよく刃を取って静かに愛しい人々を救っていくために



だからこそ真っ白くあなたの功績を示してやらねばならない必要性があるということ。



浮世の人の言うことは賛辞であろうが誹謗であろうが


それが事実じゃないのなら深く聞くな。という



すべてをなぎ払う 圧倒的な美しいあなたでいよう



やらなきゃいけない


それが多くの人に伝えてゆける


希望になってはなひらくよ