江戸時代が始まったばかりの慶長18年(1613年)、太平洋を渡った日本生まれのガレオン船がありました。その名はサン・ファン・バウティスタ号。
海外貿易を徳川家が独占する中、仙台の雄、伊達政宗が遠くヨーロッパへ向けて送り出した西洋式大型船には、数々のロマンが込められていました。
サン・ファン号で海を渡った慶長遣欧使節団に関する資料の、ユネスコの世界記憶遺産への登録が決定したのを記念して、この船にまつわるロマンの一端をご紹介します。
歴史のロマンとミステリーがつまった船
上の写真は石巻市渡波港に係留されている、復元されたサン・ファン号。
こんな立派な復元船が造られたくらいですが、実はサン・ファン号や慶長遣欧使節については、日本にはほとんど資料が残されていません。
まず最初には、日本の歴史の中に残されたサンファン号の謎についてお伝えします。
第1の謎
江戸時代初期、まだ鎖国への道が決定的ではなかったとは言え、どうして家康は伊達政宗に遣欧使節の派遣を許可したのか。幕府にとって仙台藩はもっとも警戒すべき東北の大名のひとり。日光東照宮も仙台藩など東北諸藩の反逆から江戸を守るための拠点として築かれたとも言われます。公式に使節を送るということは、国を代表して外交を行うということ。その意味を家康が理解していなかったはずありません。考えるほどに謎が膨らみます。
第2の謎
ガレオン船は当時スペインが広大な植民地を得る上で大きな役割を果たした最先端の船でした。スペイン本国では、ガレオン船の設計を漏らした者は死罪だったという話も。いまの時代なら宇宙船の製造技術みたいな最先端かつ超機密。地方の一大名である伊達政宗はどうやって手に入れることができたのか。
しかも、サン・ファン号建造には幕府からも船大工が派遣されたそうです。うーん、謎は深まるばかり。
第3の謎
最大の謎は、なぜ一大名が遣欧使節を組織し送り出したのか、です。使節の一行が帰国した時には、すでに鎖国体制が整えられつつあったので、遣欧使節についての資料は伊達家にはほとんど残されていません。
資料がないから、肝心の目的すら分からない。分からないから、歴史にロマンを求める人たちが、それぞれにいろんな想像を駆け巡らせる――。
伊達政宗はスペインと連合することで、徳川幕府に対抗しようとしたのではないか、なんて壮大なストーリーも描かれているようです。
サン・ファン号、そして慶長遣欧使節は、歴史のミステリーとロマンが結晶しているのです。
サン・ファン号誕生の地のひみつ
サン・ファン号が出航したのは、石巻市の牡鹿半島の月浦。
これは間違いないとうことで、遣欧使節としてヨーロッパに渡った仙台藩士・支倉常長の銅像など、史跡であることを示すさまざまなものが立てられています。
でも、ここにもうひとつ謎が。
500トンという当時としては巨大な船がどこでつくられたのかについては、説が定まっていないのです。
いちおう公式見解的に言われているのは、月浦から金華山を回って北に行った雄勝近くの水浜という港。でも、地元の人たちの間では「雄勝小学校前の川の河口近く以外の場所では500トンもの船は造れない」とか、「呉壺に間違いない」とかいろんな説が語られています。
たとえば河口説には、川の中で船を造っておいて、船体がある程度できたところで川の水で進水させたという驚きの説が。
呉壺という場所を推す人たちは、「幕府方に船の全体像を見せないようにして建造できて、なおかつ海がすぐそばとなると、呉壺の窪地が最適」と自信を見せます。
川の水を利用して進水というアイデアもびっくりだし、呉壺という場所は実際に見てみるとまるで大きな秘密基地のような、えもいわれぬ雰囲気を醸しているし、どちらの案も捨てがたい。もちろん水浜も。
使節をメキシコまで運び、その後いったん帰国して、さらに迎えのためにメキシコへ。帰途はフィリピンに立ち寄って、現地のスペイン軍に軍艦として譲り渡したというサン・ファン号。
江戸初期に太平洋を二往復。しかもその後で軍艦として使われるというタフな生涯を送ったこの船が、スペイン人の指導の元とはいえ、日本人の船大工たちの手で造られたのは間違いありません。
でも、その誕生の場所は不明。
石巻人ならずとも、このミステリーに挑戦してみたくなりませんか?
サン・ファン号を復活させた熱い石巻人
日本人が太平洋と大西洋を横断し、さらに戻ってくるという偉業を始めて成し遂げた慶長遣欧使節。日本人が造った船として初めて太平洋を横断するのみならず、2往復もしてしまったサン・ファン号。
故郷の歴史と深くかかわるサン・ファン号を復活させることはできないか。そんな夢が実現したのは、20年前の石巻の若手経営者たちグループの熱意でした。NPO法人「ひたかみ水の里」の新井偉夫(ひでお)さんも、サン・ファン号復元に参加されたひとりとか。ご自宅にお邪魔して話している中で、「うんそうだよ。サン・ファン号もね」とさらっと話してくれたのですが、その時はカヌーの話がメイン。つい聞きそびれました。こんど必ず当時の熱気についてお話を聞いてまいります。
新しいサン・ファン号は石巻市の中心部、旧北上川の中州にあたる中瀬の造船所で造られました。中瀬は古くから市場のある場所であるとともに、石巻の造船の中心でした。
江戸時代から近代まで北上川の水運で栄えた土地で、歴史の中で異彩を放つサン・ファン号が再建され、未来へ向けて船出したのです。
1993年5月に完成したサン・ファン号は、石巻漁港で公開された後、この船を中心とするテーマパーク「宮城県慶長使節船ミュージアム」(サン・ファン館)で展示されることになりました。
サン・ファン館は海辺に造られたドックにサン・ファン号を係留・展示し、丘の上の展示施設までエスカレーターやエレベーターでつなぐユニークなミュージアム。石巻の観光拠点のひとつとして、市民の憩いの場所として親しまれてきました。
2011年3月11日の巨大津波は、サン・ファン号を係留したドックの防波堤を乗り越えサン・ファン号を襲いました。しかし、サン・ファン号は津波を見事に乗り越えて船体そのものは外板が破損する程度の被害に止まったそうです。
生まれ変わった2代目サン・ファン号も、初代に負けないくらい強い船だったのです。
しかし、ドック周りの施設は壊滅的な被害を受けました。津波に耐えた船そのものも、同じ年の4月の暴風でフォアマストが根元から、メインマストも上部が折れてしまいました。
そんな被害から2年。
サン・ファン号とサン・ファン館は、再建にむけての道を歩み続けています。
2013年5月14日には、新たなフォアマストが立てられました。
工事が大変なメインマストや艤装類も、9月には修復が完了する予定。
サン・ファン館も11月には再オープンし、出帆400年記念式典を開く予定です。
震災から2年目は、サン・ファン号にとって、大きな節目となる年です。
2代目にとっても、初代にとっても。
初代サン・ファン号が完成する2年前には、慶長三陸地震による津波で仙台藩領の海岸集落は壊滅的な被害を受けました。そんな大変な時に伊達政宗がサン・ファン号を建造したのは、津波被害に打ちひしがれた領民たちを鼓舞するためだったのではないかという説もあるほどです。
400年の時を超えて、復興のシンボルとして再び立つサン・ファン号。
秋までの再生に向けてのあゆみと、この秋の大活躍を期待して、
どんどん続報していきます。
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)
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