2013年6月1日 福島県白河市
アウシュビッツ平和博物館で一冊の本に出会った。
小出裕章・京都大学原子炉実験所助教による『今こそ〈暗闇の思想〉を』(一葉社)。
大分県中津市出身の作家で、公害や大規模開発に反対し続けた松下竜一さんの八回忌の記念講演をまとめた書籍だ。講演の抄録に加えて、松下さんの著作が2点おさめられていた。
前夜の東京で考えて、うまくまとまらなかったことが、この一冊によってつながっていったんだ。
まずは解説しよう。暗闇の思想という誤解を招きかねない言葉について。
あえて大げさにいえば、〈暗闇の思想〉ということを、このごろ考えはじめている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。
きっかけは、電力である。
(中略)
かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気は止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化をも拒否できる思想が。
引用元:〈暗闇の思想〉から十七年(松下竜一)『今こそ〈暗闇の思想〉を』(一葉社)より
つまり、電気がなくても、たとえ電灯がいっさい灯されず、暗闇の夜を過ごすことになったとしても、それを受け入れる思想という意味だ。
これは原子力発電を念頭に置いて書いた文章ではない。一九七二年時点では、電力問題といえば火力発電所のことで、わたしにはまだ原子力発電が見えてはいなかった。
引用元:〈暗闇の思想〉から十七年(松下竜一)『今こそ〈暗闇の思想〉を』(一葉社)より
時間の流れが錯綜するので、整理しておくね。
松下さんは1972年(万博の2年後。原発の商業運転開始の2年後だ)、福岡県南東部の周防灘に面した豊前市の海岸に建設が進められていた火力発電所に対し、「環境権」という先進的な主張により建設差し止めを求める裁判を起こした。
その時、活動の対象だったのは火力発電所だった。それから17年後、火力発電所をはるかに上回る巨大な脅威として原子力発電所があり、松下さんはその廃止を目指す活動を行っている。
80年代後半から70年代前半を振り返り、対象こそ火力から原子力へと変わったが、問題の本質は何も変わっていないと述べているのだ。
1970年代前半という時代
松下さんが〈暗闇の思想〉を提唱した次の年。1973年、第四次中東戦争の勃発から石油危機(オイルショック)が起こった。この時期のことはよく覚えている。
・テレビの深夜放送が休止された。11時を過ぎるとテレビ画面は砂嵐になった。
・銀座など繁華街のネオンが消えた。ネオンが消えた様子がテレビのニュースで何度も報じられた。
・ガソリンスタンドが日曜日に休業するようになった。行楽のためのドライブが罪悪のような雰囲気になった。
・デパートのエレベーターの何台かが休止になった。
・エスカレーターが全面的に停止になった店もあったらしい。
・父さんは勉強机のランプの傘に「節電」シールを貼った。チョコレート菓子のおまけに付いてきたシールだった。
お前も行ったことがある豊前市の温泉。周防灘にせり出すように立っている豊前火力発電所が、松下さんたちが反対運動を行っていた火力発電所だ。当時、松下さんたちは、石油ショックの発生で発電所計画が撤回されるのではないかと期待したのだそうだ。
原油価格が高騰し、輸入量そのものまで激減していたから、たとえ発電所をつくっても燃料不足で操業できないと考えたのだろう。
しかし『〈暗闇の思想〉から十七年』には、「電力会社は石油ショックで発電所建設が前進すると喜んでいますよ」と新聞記者が耳元でささやく様子が描写されている。
一度繁栄を知ってしまった人間は、暗闇に耐えられない。
電力を確保するためなら、質の低い油を燃やして、公害をまき散らしても構わない。
そんな考えに流れるはず――。電力会社はそう予測していたというのだ。
残念ながら、歴史は電力会社の読み通りに進んでいった。
小学生はどう考えていたか
テレビの深夜放送が無くなったのは、電気が大変なんだということを小学生だった父さんにも感じさせるできごとだった。でも、そんな遅い時間のテレビを見ることはなかったので、大した影響はなかった。
むしろ、ガソリンスタンドが休みだからという理由で日曜日のドライブが中止になったり、ドライブに連れて行ってもらっても、ガス欠すると困るから早く帰ろうという話になることの方が影響が大きかったかな。
テレビについては、父さんが小学6年になった頃から、夜の11時を少し過ぎた時間までの放送が復活して、その後少しずつ放送終了時間が遅くなっていった。その頃、第二次大戦の記録映像を流す番組と、アメリカのテレビドラマが11時過ぎの時間帯に放送されていた。おばあちゃんに「早く寝なさい」と注意されても、この2つの番組だけは毎週見ていたから、父さんも深夜放送復活の恩恵を受けたことになる。
でも、ほかのチャンネルで放送されている番組は、ずいぶんつまらないものに思えていた。
少しずつ延長されていった深夜の時間帯のテレビは、演歌をバックに天気予報が延々と流れるとか、水着の女性の映像にかぶせて、やはり天気予報が延々と流れる、あるいはドラマの再放送といったものばかり。
こんな番組なら放送しなければいいのにと感じていた。
中学の頃、近くの高校の文化祭のバザーでオイルショックについて解説する新書本を買った。小難しい本だったけど、がんばって読んだ。全部は理解できなかったが、石油危機と呼ばれるものが、石油そのものの枯渇によるものではなく、政治的な理由によるものだということを知った。OPECという言葉を知った。日本の高度成長が終わったことも知った。これから難しい時代になるのだと感じた。
ちょうどお前たちが、アジア情勢についていろいろネットで調べてみたりするのと同様に、あの時代の少年にとって、石油危機は重要な関心事だった。
だから、あの時代の雰囲気は、いまでもけっこう鮮明に思い起こすことができる。
石油ショックは品物の値上がりが大変だっただけではなく、世の中のしくみが変化していく中で起きた事件だった。米軍のベトナムからの撤退と同様に、歴史を逆回転させることのできない種類の出来事だった。だから傷口が回復していくように、単純に元に戻っていくような流れがあることが不思議でならなかった。
暗闇を選ぶか。不夜城を選ぶか
石油ショックによって、夜は闇夜になった。
しかし、闇夜は徐々に、不夜城のような明るい夜へと呑み込まれていった。
電力会社の予想したとおりだった。
加えて、安定したエネルギーを得るという目的で、原子力発電がそれまで以上に推進されるようになる。
石油ショックは、入手可能なエネルギーの範囲内で生活するという方向へ転換するチャンスだった。
しかし、現実にはさらなるエネルギー浪費社会へと舵を切るきっかけとなった。
その背景には、暗闇の夜ではなく、不夜城のような夜を国民が選択したことがあると松下さんは指摘する。
その指摘を受けて、小出さんはエネルギー消費の少ない生活への転換を提唱する。
その毒物は、享楽的生活を送る私たちの世代ではなく、未来永劫の子どもたちに負わされる。万一、その毒物が環境に漏れてくるようなことになれば、破局的被害が出ることも初めから分かっていた。そのため、原子力発電所は電気を使う都会ではなく、電機などほとんど使わずに自然に寄り添うように生きている過疎地に押し付けられた。そこで働く労働者は被曝せざるをえない。そして、その仕事は下請け・孫請け・曾孫請けといった重層的な雇用関係を通して、社会的に弱い立場の労働者にしわ寄せされてきた。誠に呆れた社会である。
松下さんは、そんな社会の在り方にこそ目を向け、自分の生き方すべてを掛けてそれに異議を唱えた。夜の人工衛星から地球を見ると、日本は不夜城のごとく浮かび上がる。本来、夜は暗い。その夜を不夜城のごとく明るくすることが幸せということなのか……。
引用元:小出裕章「あとがき――他者を踏みつけにせず生きる」
昨夜の光景がよみがえる。
都会には明るい夜があった。その明るさを支えてきたのは、現在でこそ多くが停止しているとはいえ、数百キロも離れた場所にあった原子力発電所だった。
震災直後、福島県の広い範囲で停電が続いた。首都圏や栃木県などでは、比較的早く送電が復旧した。関東圏の電力需要を支えてきた福島が暗闇の中にあり、支えられてきた場所は電気が復活している。そんな錯綜した状況が続いた。
しかし。
光は善なりや?
夜は本来暗いものということを、勇気をもって受け入れることが大切なのではないか。
被災地の仮設住宅で、昼間はもちろん、夜になってもできるだけ電気を点けずに暮らしている人たちがたくさんいる。電気料金がもったいないとか、生活再建がいつになるか分からないから、できるだけお金を使わないでおきたい、といった切実なものはあるだろう。それでも、できるだけエネルギーを消費しない生き方という点で、被災地の人たちに学べる点はたくさんある。
個人レベルの行動の小さな積み上げが、巨大企業の発電所建設とか、それに伴う政府の政治的判断といった大きな世界での話にどうつながっていくのか、父さんにはまだよく見えてこない。
個人の活動と全体のつながり。
それは、宮沢賢治が残した言葉にも関連しているかもしれない。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
いろいろなことが重なってきて、少しずつ見えてきつつあるような気がする。でも、まだ整理しきれていない。
もっと、たくさんの人と話して、
たくさんの人の声に接していこう。
●TEXT:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)