地震動のサッコンって、どんなもの?

【まえ説】
世界三大がっかりと言えば、マーラ●オン、人●姫、小便●僧と相場が決まっているけれど、わが国の天然記念物「地震動の擦痕」も相当なもの。名前のものものしさとのギャップには唖然とするほかないのだが…。でも、よくよく見てみると、この天然記念物には、震災遺構としてこれから大いに注目を集める要素が詰まっていたのである!

天然記念物・地震動の擦痕――。

伊豆にドライブに行くたびに、カーナビ地図に表示されるその文字が気になっていた。場所は伊豆中央道の江間料金所の近く。いつも帰り道の渋滞が気になって、
「こんどイチゴ狩りに来たときにでも寄ってみよう」
と先延ばししているうち、ひょんなことから天然記念物のすぐ近くに住みかを構えることになってしまった。

となるともう先延ばしする理由などない。引っ越し荷物も片付かないうちから、自転車にまたがって天然記念物に対面しに行った。

それにしても、「地震動の擦痕」という名前のものものしいこと!
対面するまでは、地震の揺れでずれてしまった地層とか、ぶつかり合った巨岩とか、そんなどでかいスケールのものを想像していたのだが…。

比較的簡単に見つけることができた看板は、こんな感じだった。

イメージとのギャップの大きさにあっけにとられ、思わず通り過ぎてしまった。
看板や石碑がいくつも立っているところからして、どうやらこの小さな建物の中に天然記念物はあるらしい。

ところで、中には入れるのだろうか?

いえいえ、中に入るまでもなかったのです。

(それにしても映り込みがひどい。中より外の方が明るいから諦めるしかないのだが)

これが、「天然記念物 地震動の擦痕」。

何が天然記念物かというと、ガラス張りの建物に大切にしまわれた赤っぽい鉄の塊ではない。その表面に刻み込まれた擦り傷こそが、天然記念物なのだ!

「この地震動の擦痕(傷あと)は、魚雷と台石が天然の地震計となって地震の激しさを刻み残したもの…」と書かれている

実物を見ただけではピンとこなかったのだが、説明パネルのイラストを見てガテンが行った。こ、これは・・・

魚雷が地震計になったということ!

たしかに魚雷の胴体に刻まれた傷跡を見ると、

最初にタテ方向に小刻みに揺れて、その後、左右に大きく激しく揺れた様子が見て取れる。それぞれP波とS波に当たるというのだろうか?

詳しい解説を読んでみよう。

 昭和五年三月十日忠魂碑建設の時に海軍より魚雷を下附され附属物として展示されていた。この年十一月二十六日北伊豆地震が起こり台石が針となって魚雷が振動し魚雷腹部をけずり擦痕をつけて自然の地震計となった。天然記録としてきわめて珍しく昭和九年一月二十二日国の天然記念物に指定された。
 魚雷は大石の上に頭部を南五度東に向けて安置され地震に対して不動点となったため擦痕を印した。擦痕の曲線は左下方より始めて一往復半の後四回の一進一止をくり返して合計七七二五ミリの移動を示した。この曲線は地震動の実大を示したものではない。

引用元:地震動の擦痕 解説

なるほど。調べたことも含めて読み解くと、こんな感じかな。

いまから80年以上前の昭和5年、当時この場所にあった小学校に、日露戦争で戦った兵士たちを顕彰する忠魂碑を作った。その時に、海軍にお願いして魚雷を譲ってもらって展示した。それが3月。

その年の11月26日に、伊豆の東側の山並みをほぼ南北に貫く断層が、左に2~3メートルもずれるマグニチュード7.3の地震が発生。小学校は倒壊。忠魂碑に飾ってあった魚雷の胴体に、飾るための台石との間で擦れた跡が、まるで地震の動きを記録するかのように残された。

地震がこのような形で自然に記録されることは珍しくて、昭和9年に国の天然記念物に指定された。

擦痕は左下から始まって、全幅725ミリ、合計では7725ミリも移動しているが、地震動の実際の大きさを示しているものではない――。


ちなみにこの魚雷は、旧帝国海軍の四四式二号魚雷と呼ばれるもので、先端の炸薬部分と、後端のエンジン部分は撤去されて、擦痕が刻まれた中央部の気室部(魚雷の燃料と燃料を燃やすための空気のタンクを備えた部分)だけが展示されている。魚雷そのものは、直径45センチ、全長約5.4メートル。水中を時速67キロで疾走する能力があったらしい。第二次世界大戦で帝国海軍が誇った酸素魚雷開発のベースになった魚雷ともいわれている。

震災遺構として「地震動の擦痕」はまだ化ける!

擦痕がどういう物だかわかったが、判然としないものがまだ残る。

それは、地震で刻まれたキズの意味や価値をいったい誰が見出したのか、ということ。

東日本大震災でも、たくさんの物が被害を受けてキズだらけになったり、原形が分からないほど形が変わってしまったりした。被災地にはキズの入ってないものなどない。すべてが壊されていた。おそらく北伊豆地震の直後もそうだったに違いない。

そんなキズだらけの物の中から、「天然記録としてきわめて珍しく」という価値を誰が発見したのだろう?

国の指定にあたっては、偉い先生方があれこれご意見を述べたことだろうが、一番最初にこのキズを見て「すごい!」と言った人物が誰なのか、という謎だ。

調べてみたが、ずばり誰が、という資料には現在のところ出会えていない。ただ、地震学の歴史を振り返ってみると、この時代はまさに日本の地震学の青少年期に当たるような印象がある。

ざっと紹介すると、

明治時代に来日したイギリス生まれの技術者ジョン・ミルンが、世界初の地震学会「日本地震学会」を創設したのが1880年(明治13年)。いまからほんの140年ほど前のことだ。

日本最大の内陸断層地震、濃尾地震(M8.0)が発生したのが1891年(明治24年)。

その3年後の1894年(明治27年)、世界初の実用的地震計ともいわれる「ミルン水平振子地震計」が作られる。

それ以降、数々の地震計が作られていく。

1898年 大森式地震計
1902年 田中館式地震計
1904年 ヴィーヘルト式上下動/水平動地震計
1907年 ガリッチン式地震計
1911年 今村式2倍地震計

そして1923年9月1日、関東大震災が発生。東京大学に設置された今村式2倍地震計が関東地震の揺れの記録に成功。

北伊豆地震が発生した昭和5年(1930年)頃は、世界で初めて誕生した地震学会がよちよち歩きから、道具を手にして立ち上がり、科学として独り立ちしようとしていた時期に当たる。道具とはもちろん地震計。その進歩を力にして、地震の科学的な研究の可能性が広がっていた熱い時代だ。

関東大震災の7年後、東京から近い北伊豆で発生した地震だから、地震学を志す若き研究者がたくさんこの地を訪れていただろうことは想像に難くない。

おそらく、そんな若者の中のひとりが、たまたま何かの偶然で魚雷の腹に刻まれたキズを目にする。目にした瞬間、彼の頭の中で、当時の先端科学の粋だった地震計に記録された波形と、魚雷の擦痕の相関がひらめいたのではないか――。ただのキズが天然記念物として残されたことで、いろいろな世界が広がっていく。魚雷に地球の運動が刻まれたという驚きの対象としてはもちろん、地震学のあまりにも短い歴史を振り返る端緒として、また、その時代に生きていた人の姿を想像するきっかけとして。

想像に後押しされて、北伊豆地震の震源地あたりを歩いてみたくなるかもしれない。
魚雷という戦争遺構から、第二次大戦末期にこの近隣でたくさん掘られたという地下工場や地下特攻基地のことを調べてみたくなることだってあるだろう。

そして一番の驚きは、80年前にこの地で大地震が発生して、多くの人が犠牲になっていたということを、展示された天然記念物から感じることがなかった(もちろん自分自身が)ということだ。震災遺構のあり方を考えるきっかけになるかもしれないし、逆に「復興」というのがどういうことなのかを遡って想像してみる起点にもなるかもしれない。

せっかく残された遺構に、これからも活躍してもらうためには、もう少しフックを効かせた展示も必要かもしれない。所在地の市民として、ちょっと働きかけてみようかな。

地震動の擦痕

伊豆の国市南江間

北伊豆地震の震源とされる丹那盆地

おいしい牛乳の産地でもある

◆ 追加情報をもうひとつ

「地震動の擦痕」が展示されているのは、江間村尋常高等小学校があった跡地。ちょうど展示施設が建てられた一角がかつて忠魂碑があった場所です。

そしてこの場所は、いまからおよそ800年前の源頼朝の時代、北条氏の執権政治を固めていった北条義時の屋敷があった場所でもあるのです。

小学校の跡地、そして義時の屋敷跡のいまの姿です。小学校がなくなってから80年。この場所には、何かが建てられるでもなく、といって本格的な公園として整備されるでもなく、いろいろなものの跡を残す空き地として、長い月日が流れてきました。

なんだか、夢のような空気がただよう不思議な場所なのです。

●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)