浜風商店街の食品スーパー「はたや」遠藤利勝さんの603日 (2012年11月3日)
地震の前日、3月10日に妻がいわき市平の病院に入院していたんです。本当は行く予定はなかったんですが、珍しく診察券を忘れたというので届けに行って、その帰り道、平の町を車で走っているときに地震が来ました。あんまり長く揺れが続くので心配で家に電話をしましたが誰も出ない。そのうち電話そのものが通じなくなって。急いで戻ろうと国道を北に向かいました。
3メートル程度の津波が来るという情報だったので、山側の裏道を通ることも考えたのですが、行けるところまで行こうと海辺の国道を走りました。久之浜の町に入る手前にトンネルがあるんですが、自分はそこも通れたんですね。後で聞くとトンネルが通行止めになって困ったというのですが、私は通れた。たまたま警察が目を離しただけなのかもしれませんが。
久之浜に入ると、妙に不気味な雰囲気でした。店まで戻るとみんな外に出ていました。店の中を見てみると、落ちている商品はありましたが、これくらいなら何とかなるなと思える程度でした。シャッターを閉めて駐車場に戻ると、みんな外で話をしていました。
その時です。ゴゴゴゴゴと聞いたこともないような音がして、海側の家の周りに黒いオーラがかかっているのが見えたんです。みんなを車に乗せて、姉の車と2台で逃げだしました。
国道6号を北へ。がれきが国道に迫る中、大久という町に続く高台を目指しました。
大久に向かう高台の手前に、橋が2つあるんですが、1本目の橋は何事もなく通れました。でも、2つめの橋の手前まで走ったところで、橋の上に水が見えました。
川に沿って津波が押し寄せてきていたのです。でも、もう戻ることはできません。
「行くしかない」
水しぶきを上げて、津波が押し寄せてくる橋を駆け抜けました。バックミラーに姉の車がついてくるのが見えて安心しました。ぎりぎりでした。
町の人たちと交わした言葉が約束に
高台から町を見ていると、海には何回も津波の筋が見えました。そのうち津波に呑まれた町なかにすーっと煙が上がったかと思うと、それが炎になりました。津波と火災で町が壊されていくのを、私たちは高台からずっと見ていたのです。
その晩は一晩に4~5回くらい、自転車で坂を下って店まで様子を見に行きました。もちろん町なかはがれきで走れませんから自転車を担いでです。店の近くまで行っても簡単には中に入れない状況でした。なんとか中に入っても荷物が暴れていて先に進めません。2階に上がることもなかなかできませんでした。余震が続いていたので、ちょっとだけ店にいて、すぐ戻る。また店まで走って金庫や伝票を2階まで上げる。そんなことを繰り返していました。
私が何度も店に走っていくのを見て、近くの旅館の人に「うちはダメだから、できたら写真を撮っておいてくれない」と頼まれたりもしました。私も覚悟はしていました。でも奇跡的としか言いようがないのですが、火災はうちの手前で止まったのです。
しかし、すぐに原発さんが爆発します。
それから1カ月近くはサバイバル生活ですよ。水と食料とガソリンをなんとか確保する。そればかりでした。そんな最中、3月後半には仮設商店街の話が出始めていて、うちも声を掛けられたんです。
ありがたかったです。
でも、冷静に考えると、採算が取れるかどうかはわかりません。被災した久之浜に店を出して家族を養っていけるのかと悩みしました。考えた末に決断したのが「とにかくやります」ということ。
被災した町で出会ったたくさんの人から、「お店、やってよね」、「再開してもらわないと困る」と言われていました。会う人、会う人、みんながそう言うんです。そのうち、これまでお世話になってきた町の人たちとの約束のように思えるようになっていました。仮設商店街への出店を決めた時には、約束を果たさなければという気持ちが強かったですね。
それでも、仕事があれば、やっていける
4月の初めか、3月の末だったか、以前から配達していた得意先から「代わりの業者を紹介してほしい」と頼まれたことがありました。久之浜は被害が大きいから、もう商売はできないだろうと思われたのでしょう。でも、配達であれば店がなくてもできます。市場で仕入れて直接納品すればいいのですから。
「いや、やれるよ」と得意先に言ったことが自分にとっての発奮材料になりました。
やってる。仕事をしてるってことが、心の支えになるのです。店は運転資金などの融資も受けていますから、少しばかりの商売を再開しただけでは、とても食っていける状況ではありません。
それでも、仕事をしていれば、やっていける。
久之浜より原発に近い場所で、うちよりもずっと大きな規模で商売をしていた人が自殺したと聞きました。補償もあるし、金銭的に行き詰ったということではなかったようです。「仕事ができない」ということが、その人を自殺に追い詰めたんだろうと思っています。
うちの場合は配達の仕事から再開して、少しずつ取引先が増えていって、いまでは配達の仕事に関しては震災前よりも増えているくらいです。仮設商店街に出店してからは、お弁当の仕事も増えました。これも以前はあまりやっていなかった商売です。
震災をきっかけにして、少しずつお店の業態も変わってきているんです。このまま行けば将来は弁当屋さんになってるかも、なんて思ったりもするんですよ。
でも、変わってでもやっていかないと。
待っているだけではしようがないので、積極的に前に出ていくことが必要だと思っています。
それでもそこにある「震災病」
震災前の店舗では、アイテム数は4,000くらいあったかな。いまの仮設店舗では1,000にも届かないでしょう。だからこそ、新しい部分を増やしていかないと考えるんです。
不安はありますよ。資金面のこともありますが、お金の問題だけじゃなくて、震災の後、気持ちが落ち着かないんです。心ここにあらずという感じがずっと続いています。店だけじゃなくて、住んでいる場所も以前とは違うから、どうしても落ち着かないということもあるでしょう。
震災病。震災の痛みみたいなものなんでしょうね。
震災の後、11月に妻が亡くなりました。
地震の後、一度も家に連れて帰ってあげることができなかった。頑張っているところを見てもらえなかった。どうしてもテンションが上がらないんです。きついですよ。
商売を新しい方向にとか考えながらも、生きる気力ってものが少ないんです。いつどうなってもいいという思いがあって、そうじゃいけないっていう気持ちもあって、宙ぶらりん。いつももうひとりの自分が「がんばれ」と言ってる。自分で自分にそう言い聞かせている感じなんです。
それでも自分にどうにもできないことを考えることはストレスになります。
久之浜の人たちが何を思っているかわかりますか。あまり口には出しませんが、みんな元の生活に戻りたいんです。
「元に戻せんの?」
みんなそう思っていますよ。
どうしても元に戻せないというのなら、やれることをやるしかないと先を考えることもできるかもしれません。しかし誰も、「もう元には戻れない」とも言ってくれないのです。
原発のこと、これからの町を左右することなのに、これも宙ぶらりん。人口が減れば商売は大変です。続けられるかどうかの問題です。なのに、先を考えることができない状況なのです。
もういいかなって思っちゃうこと、ありますよ。やんなくちゃいけないと思っていても、自分にどうにもできないことだと、頑張りきれなくなるんです。
病気で亡くなるのでなくて、何かあって死んでしまうのでも、後悔はありません。生きるだけ生きよう。そう思います。
私はね、わざと口に出すようにしているんです。言って、自分に言い聞かせてないと。仮設商店街の会長を引き受けたのだって同じことなんです。
生きろ!って言われている気がします。
嫁さんの葬式の時も、新盆の時も、前のお店の2階で過ごしました。海の音がとても近くに聞こえました。こんなに近かったかなと思いました。それでも、ほっとするんです。こわさもわかっているし、危機一髪の目にもあっているのに。不思議ですね。
ブイチェーンはたや福島県いわき市久之浜町久之浜字糠塚15
「はたや」さんは現在、久之浜第一小学校校庭の浜風商店街でお店を経営しています。かつての店舗に比べると規模は小さくなりましたが、お惣菜やお弁当などを充実。浜風商店街にお立ち寄りの際は、生鮮品や人気のお惣菜をぜひお買い求めください。
●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)