ずっと地元で生きてきたから、 復興の現実を見つめる目はシビアだ。 それでも弱音を吐かない強さ(2012年1月21日)

 静岡県浜松市に避難している川里女久美(めぐみ)さんのご両親、完戸富吉(ししどとみよし)さんと奥さんの幸子(ゆきこ)さんへのインタビューで福島県南相馬市を訪れました。取材当日の浜通りは雪まじりの天気。お二人は「こんな雪になって大変でしたね。本当はほとんど雪が降らない住みやすい土地なんですよ」と迎えてくれました。完戸さんは電気設備工事会社を経営。幸子さんは生命保険会社に勤務されています。
「言葉で説明するよりも、実際にその場所を見てもらった方がいいだろう」と、津波で流された自宅、津波に襲われた時にいた場所、さらに家族の思い出の土地を、車で案内してくれました。

完戸富吉(ししど・とみよし)さん・幸子(ゆきこ)さん(南相馬市)

夢で見たのと同じ津波の光景。無我夢中で引き返して走り続けた道

「ここにうちがあったんだ」 小雪が舞う中、車を降りた完戸さんが、いまは更地になっている自宅敷地を案内してくれました。震災前の家族写真や、津波被害を受けた直後の自宅の写真、さらに雑誌から切り抜いた津波被害直後の航空写真などが貼り付けられた大切なアルバムを手に、「母屋はここ。こっちに娘たちのための離れがあったんだ」と説明してくれたのです。

   しかし、すべてがなくなってしまった更地からは、写真を見せてもらいながら説明を聞いても、往時の様子を想像するのは困難でした。元から広かった敷地がいっそう広く感じられます。

「あの日は、仕事の打ち合わせでいわき市に行く途中だったんだ。地震が起きた時にはちょうど国道6号を南に向かっていて、いま警戒区域のゲートになっている大甕(おおみか)のあたりを走っている時に、ものすごい揺れが来てとてもじゃないが車を運転できなくなった。揺れがおさまってすぐに自宅に向かったよ。すぐ近くだから5分くらいで戻れたかな。そしたら娘は赤ちゃんを抱いたまま庭にへたりこんでいたんだ」

 この時、とにかく避難しなければという話になったのは、女久美さんからも伺ったとおりです。完戸さんは会社の従業員の安全を確認するため、数キロ離れた海岸線の高台にあるお得意さんの工場に急行したそうです。完戸さんは、その日の行動を再現するように車を走らせながら説明してくれました。

「テレビで見ただろう、津波で流された送電線の鉄塔はもとはここに立っていたんだ」「この辺にも家がたくさんあったんだけどな」「ここは田んぼだったな…」
 左手海側には大規模なガレキ置き場。右手には茫漠と広がる荒れ地。浜街道の旧道で、かつては地元の人たちが頻繁に利用していた道は、いまではガレキを運搬する大型ダンプが唸りを上げて走っているばかり。ほとんど一般車は見かけません。 

「お得意先に到着すると、作業はもう終了していて、従業員たちも帰った後だと確認できたので、自宅の方に向かって海沿いの道を走ったんだよ。元は松並木だった下り坂に差し掛かったら、地元の老人たちがブロック塀に腰掛けて海の様子を見ていたよ。津波警報が出ていたけど、福島に大きな津波がくるなんて誰も思っていなかったから、どんな波が来るのか見物していたんだろうな」

  さらに下って堤防の辺りまで来たところで、完戸さんは車を降りました。

「最初に津波を見たのはここだった……」

完戸さんが最初に津波に気づいた場所

ブロック塀に腰かけて津波の様子を見ていた老人たちは……

   完戸さんは遠くの松林の上に、煙のようなものが上がっているのを目にしたと言います。最初はなんだか分からなかったそうですが、震災の前に完戸さんは同じ光景を何度も夢に見ていたのだとか。

「不思議な夢を見たよ、と妻に話していたんだけど、その映像とまったく同じだったんだな。あっ夢で見たあの津波だって思って、あとはもう無我夢中で車をバックさせて、海から離れる方向のわき道に入って、全速で走ってな。ギリギリだったと思うよ」

 後部座席で奥さんが小さくつぶやきました。

「お父さんが無事でいてくれて、本当によかった」

被害の大きさに言葉が継げなくなってしまう

   南相馬市原町区で、津波直後の状況を伺った後、完戸さんは車を北に向けて走らせました。海沿いの道を行くと、ほどなく大きな被害を受けた東北電力原町火力発電所の正面ゲート前に出ます。火力発電所の近くの海は、良い波が起きるということでサーフィンの国際大会も開かれていた場所だったそうです。近くの浜辺は海水浴場としても人気で、完戸家でも海に泳ぎに行くのはこの場所が多かったのだとか。完戸さんは車を走らせながら、通り過ぎていく土地の思い出を1つひとつ話してくれました。

 火力発電所の坂道を下っていくと車は南相馬市鹿島区に入ります。鹿島区は完戸さんの奥さんの出身地です。ご親戚の中には、逃れようと必死になって走る車を次々と津波が呑み込んで行く様子を高台の家から目撃したせいで、それから恐くて自動車に乗れなくなったという方もいると教えてくれました。

 鹿島区にも原町区と同様に広い田んぼが広がっていました。そして海に近い場所には水田をつぶして造成した新しい町があったと言います。東北とは思えないほど温暖な気候の浜通り。しかもサーフィンのメッカとあって、会社勤めの若い家族が海の近くに家を求めることが多かったかもしれません。

火力発電所近くの海浜公園の遊歩道
公園施設は基礎の下までえぐられていた

 津波に呑み込まれていった人たちはこの場所でどんな暮らしをしていたのでしょうか。来るはずないと思っていた津波に襲われた時、何を思ったのでしょう。しかし、津波に流された一面には荒れ地が広がるばかりで、どこが田んぼで、どこが町だったのかすら判然としません。

「今日は雨だから目立たないけど、晴れてる時は田んぼの土に塩が浮き出ていて、一面真っ白に見えるんだ」。ハンドルを握る完戸さんが教えてくれました。多くの人が命を失った悲しみの土地では、農業を再開できないという悲劇がいまも続いているのです。

鹿島区に広がる津波をかぶった田んぼ

 農家の人たちが丹精込めて作り込んだ豊かな表土は津波に洗い流され、代わりに海の砂で埋められていたり、流されてきたガレキが混じっていたり。その上、土が真っ白くなるほどの塩。そして原発事故の問題もあります。たとえ塩やガレキを取り除いたとしても、作付制限が解除されなければ緑の水田は戻ってきません。仮に稲作を再開しても、作った米から1キログラム当たり100ベクレルを超えるセシウムが検出されないかという心配は収穫するまで残ります。さらに風評被害の問題もあります。

 いったい農地を元に戻すのにどれくらい時間がかかるんでしょうかと尋ねると、

「どれくらいだろうな」と言ったっきり、完戸さんは黙り込んでしまいました。農家の出身の完戸さんにとって、地元の農業がおかれている深刻な状況は他人事とは思えないのでしょう。

思い出の中にある風景と現実の大き過ぎるギャップ

「うちの両親は私以上に賑やかな人たちだから、よろしくお願いしますね」――。
南相馬への取材を前に娘の女久美(めぐみ)さんがそう話してくれた通り、完戸さん夫妻は温かくて親切な方たちでした。土地勘のない記者のことを気遣って、被害を受ける前にはどんな町だったのかを、原町区でも鹿島区でもたくさんの言葉で語ってくれました。まるで、いまは目にすることのできない観光地を案内してくれているような時間でした。

 そんな完戸さん夫妻の口数が少なくなってしまう場所が、津波を受けた水田の他にも何カ所かありました。

 相馬市の松川浦もそのひとつです。松川浦は海岸線に沿って伸びた砂嘴(さし)によって形作られたラグーン(潟湖)。海沿いの松林の道を北に向かって走れば、右は太平洋、左手には松川浦が広がります。まるで海の中に松林の道が続いているように思える場所だったのだとか。

「クルマを走らせていて気持ちのいい、大好きな道だったな」

 堤防が何カ所も崩れ、大半の松の木が倒されてしまった現在の姿からは、海の中に続く気持ちいいドライブウェイというイメージはなかなか浮かんできません。それでも、ここは完戸さんが若い頃から何度も走りにやってきた場所。もしかしたら走っているだけで、青春の頃の思い出がよみがえってくる特別な場所だったのかもしれません。

 よみがえってくるのは若い頃の思い出ばかりではなかったことでしょう。松川浦は家族の思い出もたくさん詰まっている場所だからです。

松川浦にわずかに残った松の木

 福島の浜通りで潮干狩りに行こうという話になると、まず第一候補に上がるのが松川浦なのだそうです。

 アサリもホッキもよく獲れたと言います。潮干狩りばかりではなく、海釣りや磯遊び、早春にはイチゴ狩りなどファミリーで楽しめるアクティビティが松川浦には揃っていました。旅館や民宿も数多く、浜通りの人たちにとって思い出深いレジャースポットだったのです。

   津波で変わり果てた松川浦の観光スポットが目の前に広がるたびに、完戸さんの口から小さく「ああ、こんなになったのか」という声が何度も漏れました。

漁港近くの工事現場では、津波で打ち上げられたテトラポットが重しの代わりに。

溜め息をつかない「強さ」が明るさにつながる

 かつての姿が思い出の中にしか残されていないのは、自宅があった原町区でも同じです。自宅が流され、思い出の品物も失われました。いま大切にしているアルバムは、震災の後、親戚などから送ってもらった写真で新しく仕立てられたものです。それでもアルバムをめくれば、家族が揃っていた頃の写真が現れます。楽しい思い出が湧き出してきます。

「自慢だったのは、農機具を入れてた離れを建てなおして作った音楽ホール。うちの子供たちはみんなサックスをやるから、練習できる場所がほしかったんだ。38畳もあったんだぞ。照明とかオーディオとかにも凝って作り込んでね。ホールだけじゃなくてクローゼットとかキッチン、バスも付けてたから、子供たちの仲間の若い人たちがよく集まってたよ」

「お父さんのご贔屓の○○ちゃんが来てるから、練習を聞きに行ってきたら、なんてよく言ってましたよね」

「自分ちの子供と仲間たちが楽しそうに練習しているのを、自分が作ったホールで眺めるんだよ。あれは楽しかったな。最高だったよな」

「庭にはゴルフの練習場も、お父さん作ってましたよね」

   「この辺の家はどこも先祖代々の田畑を受け継いだ所に建てているから敷地が広いんだ。うちには100坪くらいのゴルフ練習場を作ってたよ。もちろんグリーンもあってね。自分で言うのもなんだけど、いい練習場だったんだ。知り合いの会社の人なんか、ちょっと練習させてくれってお昼休みにやってきて、夕方までやってたりしてたくらいだからな。オレも練習場で腕を上げて鹿島カントリー倶楽部のコースをパープレーで回ってたよ」

 完戸さん夫妻の楽しい思い出話は、次から次へと飛び出します。誰に勧められたって訳でもないのに長女の女久美さんが中学でサックスを始めたら、二女も長男もみんなサックスをやるようになったこと。自宅の外壁にサックスの形のイルミネーションを灯して近所でも評判だったこと。知り合いから毎年のように地物の松茸を頂くのが楽しみだったこと。

 そして、「良かったよな。最高だったよな」と繰り返すのです。

 最高だったよな、とただ昔を懐かしんでいるのかと思っていたら、どうもそればかりではないようなのです。ふっと遠くを見るような目をすることはあっても、完戸さんは溜め息をつきません。溜め息を漏らす代わりに、次の楽しかった話が始まります。まるで息継ぎをするように何かを呑み込んで。

 復興という言葉からはほど遠い厳しい現実があります。早く元に戻ってほしいと願っても、その願いが叶うまでには長い時間が必要なのは間違いありません。もしかしたら元通りにはならないこともあるかもしれません。地元で生きてきた完戸さんたちは、外からやってきた記者の何倍も何百倍もシビアな目で、復興の可能性について思いを巡らせています。「難しいだろう」という辛い見立ても、さまざまな場面で下してきたはずです。

 それでも溜め息をつくことがない完戸さんに、南相馬という「特別な」場所で「ふつうに」生きる人間としての強さを感じます。

Profile

ご夫妻ともに、現・南相馬市の出身。富吉さんは南相馬市原町区で電気設備会社を経営。幸子さんは生命保険会社に勤務。お二方とも、地元に密着した仕事に長年携わりながら、3人のお子さんを育て上げた。上のお2人はすでに結婚され、3人のお孫さんのおじいちゃん・おばあちゃんでもある。一番下の息子さんもフランスへの音楽留学から震災直後に帰国され、現在は神奈川県でサックス奏者としての活動を始めている。子育てがようやく一段落したその年に見舞われた大震災。自宅も会社の設備の多くも失われてしまったが、従業員の生活のため、お客さんのため、そして自分たちの未来のために、南相馬という町で明るく前向きに毎日を送っている。

完戸富吉(ししど・とみよし)さん・幸子(ゆきこ)さん