息子へ。被災地からのメール(2012年12月2日)

「宿題はちゃんと終わらせたの?」

そんな声を振り払うようにして2人で歩いて行ったのは、前夜の夢の中にあった石巻の町ではなくて、伊豆の国市古奈のレストラン・アクアサンタ。パティオを通りぬけてレストランに入ったら、オウミさんが「おう!」っと声をかけてくれた。

「いったいどこに住んでんだ?」

ってオウミさんが続けて言って笑ってたのは、つい先週末、父さんたちは石巻で会って話したりしていたからだ。石巻で一緒だった人と、出張帰りの翌日に静岡で会う。不思議だけれど、なんだかいい。なんかいい感じがするからお前さんをぜひとも連れていきたかった。

オウミさんは石巻の新聞社の社長さん。今回は新聞社の仕事ではなく、特別なミッションを持って、やはり宮城県の住人であるタケダさん、ミウラさんと連れだって静岡までやってきていたんだよ。

オウミさんのことは時々話したことがあったけど、実際に会ってみての印象はどうだった?想像どおりの人だったか?

最初のうちは大人の話が多かったけど、難しい話は早めにたたんで、お前さんにも楽しめるように話題を変えてくれていたってこと、分かったか?

サッカーの話からセブンイレブンのおでん種の話になって、なぜかさかなクンの話題まで。それでも多分、断片的にしか分からない話ばかりだったかもしれないが、お前を連れて行ってやっぱり良かったと思った。

話の内容が理解できなくても、真剣な大人がまじめな話をおもしろ可笑しく語るのを聞くことって、良いことだと思う。

石巻ではたくさんの人たちが、いろいろな関わり方で、町の未来に向かって走りまわっている。東京や横浜などから出向いて住みついた若い人たちが活動していたり、地元出身のアーティストが東京から戻って来たり、四国出身の写真家(すごくいい表情を撮る人だよ)が移り住んでフォト・バンドエイドって活動をしていたり、もちろん父さんが大好きな黒ずくめの電気屋さんが夜の町を走りまわって未来への希望のかけらを拾い集めていたりする。

オウミさんも、そしてタケダさんやミウラさんも、そんな大きな動きの中心となって動いている人たちなんだ。

もちろん、石巻だけではなくて、久之浜でも郡山でも本宮でも福島でも南相馬でも相馬でも山元でも亘理でも仙台でも七ヶ浜でも東松島でも女川でも南三陸でも気仙沼でも陸前高田でも大船渡でも綾里でも釜石でも大槌でも宮古でも、真剣な大人がまじめな話をおもしろ可笑しく語っている。半身に傷を負いながら。語っている人たちの熱はたいへんなものだ。

被災地はたしかに何百キロもはなれている。でも、いっしょにテーブルを囲んで、ディナーコースのおこぼれを頂いたりしたりして、「部活は何をやってんの?」なんて尋ねられたりしていたら、何か目に見えないつながりが育って行くのを感じるだろう。

話すことなんて何でもいいのかもしれない。言葉だけじゃないのかもしれない。

何か気配のようなものでも感じられたら、宿題3カ月分以上の意味があるような気がする。なぜならば、傷ついた日本の一部が再生していくためには、まだまだ長い時間が必要だから。その時、きみたちの年代の人たちの力が、どうしても必要だと思うからだ。

こんどはいろいろな人に会いに東北へ行こう。