世界一と言われたスーパー防潮堤が物語ること
明治の三陸地震は(1896年)では約15メートル、昭和三陸地震(1933年)では約10メートルの大津波による壊滅的被害を受けた岩手県宮古市田老地区(旧田老町)。津波への対策として半世紀もの時間をかけて築かれたのが「万里の長城」の別名がある総延長2433メートルの防潮堤です。
見る人を圧倒する巨大な堤防ですが、今回の大津波はX型の堤防のすべてを乗り越え、海に面した最も新しい堤防を倒壊させてしまいました。
堤防にいまも残る竣工記念の銘盤です。
天端(てんば:構造物の上端)高の項目にある「DL」は土木工事の基準となる水準線のこと。基盤から10.7メートルの高さがあるということです。
「T.P.」は東京湾の平均的な海水面の高さのことで、海面から10の高さの堤防だということが示されています。
防潮堤の階段のそばには「津波避難階段」の看板が残されています。
海の近くにいる時に津波が来たら、高さ10メートルの防潮堤に避難しようということでしょう。
しかし、今回の巨大地震は防潮堤をはるかに超える水かさで、田老の町に襲いかかったのです。
防潮堤の上の照明は、津波になぎ倒されたままの状態です。
破壊された「万里の長城」
湾口に対して斜めに設置された堤防は壊れずに残っていますが、追加して造られた、湾口に直面する形の堤防は津波によって破壊されました。(右が海側、左が陸地側です)
この写真は左が海側、右が陸側です。
防潮堤は盛り土の表面を厚さ約1メートルのコンクリートで覆った、重力式と呼ばれる構造だったようです。その巨大さから、かなりの重量があったと思われます。
盛り土がえぐられた堤防の中に入ってみました。本来なら分厚いコンクリートで固められていた場所。通常ならありえない状況です。右奥の堤防は、津波を斜めに受ける形に造らていたため壊れなかったと言われています。
防潮堤の見学に来る人も少なくありません。被災地ツアーの観光バスも回ってくるようです。
田老地区では、ハードである防潮堤に頼り切るのではなく、昭和三陸地震の津波を経験した方のお話や紙芝居などを通じて、津波避難の大切さをソフトとしても伝える活動に熱心だったといいます。
「防災」なのか「減災」なのか。それともその両方が必要なのか。
明治以降、3回も激甚な津波被害をこうむった田老地区は、自然災害への取り組みについて考えさせられる所。ぜひ日本中の人に来てもらいたい場所です。
訪問:2012年10月●TEXT+PHOTO:井上良太