東日本大震災・復興支援リポート 「少しずつやっていくしかない」それは限りなく前向きな言葉

女川港から山に向かってクルマを走らせること10分ほど。山あいの集落にふたつの仮設住宅の団地が営まれています。清水地区120余世帯、新田地区約100世帯。それに同エリアで在宅の方、福祉施設である仮設グループホーム。あわせて250世帯以上の人々のくらしの窓口として活動しているのが阿部弘子さんです。厳しかった冬を乗り越えた経験、復興に向けての今後についてお話を伺いました。

阿部弘子さん

“つらい冬”を乗り越えた阿部さんの笑顔の変化

4か月ぶりに再開した阿部弘子さんは、変わらぬ笑顔で迎えてくれました。それでも、にこやかな表情で語られたのは、「なんとか、担当する仮設住宅から“孤独死”を出すことはなかったけれど、この冬は大変でした」

「住んでる人たちが自発的に集まって“お茶こ会”を開いたりするようにはなったけど、やっぱり出て来てくれない人もいるんですよね」「訪問すると、『そんなこと聞いて何になるのや。病気を治してくれるのや?』なんて言われることもありますよ。そんな時はね、いくらプロでもやっぱりつらいですよ」

そんな言葉でした。宮城県女川町の新田地区仮設住宅に、前回、阿部さんを訪ねたのは2011年11月18日。女川町から委託を受けて、「女川町こころとからだとくらしの相談センター」の専門員として清水地区・新田地区を担当することになった阿部さんは、「この冬をどう乗り切るか」という大きな課題に直面していました。

仮設住宅など、担当されることになった世帯数は約250。ひとりで回りきれるのか。女川町の広範なエリアから集まってきた入居者たちのコミュニケーションが取れるのか。仮設などから孤独死する人を出すことなく、この冬を乗り切ることができるのか。冬が目の前に迫っていた去年の11月、それでも阿部さんが、「やるしかありませんからね」とにこやかに話してくれたのをよく覚えています。そして今回、阿部さんと再会したのは、東日本大震災から1年と2日が経過した2012年3月13日のことでした。笑顔は変わりません。相変わらずお元気そうに見えます。でも、つらい冬を乗り越えられたことで、阿部さんの言葉のトーンが少し変化したように感じました。

「冬を乗り越えること」の実態は

言葉にするとたった一言です。しかし「冬を乗り越える」とはどんな意味を持っているのか、阿部さんの言葉から仮設住宅の暮らしの実態が少しずつ伝わってきます。

冬を迎えて、阿部さんが最初に行ったのは、全国のケアマネージャー協会が支援活動の一環として作成した仮設住宅の「全戸調査」に基づく健康調査。仮設に入居している人たちを一軒ずつ回って、「体調はいかがですか」と聞いて回る活動です。健康上おもわしくない点はないか、困っていることはないか聞き取りをするのはもちろんですが、健康面以外のくらしのこと全般について話を聞き取り、入居している人たちとのコミュニケーションを深めていくという狙いもこの活動にはあったようです。

「部屋に上げてもらってお話を聞かせてもらうこともあるし、玄関先で立ち話をするだけということもあります。中には『そんなこと聞いて何になるのや。病気を治してくれるのや?』という人もいます。津波で経済的な基盤を失って、しかも持病もある人にとって、先が見えないことが大きなストレスになっているのです。それでもね、やっぱりいくらプロでも、そんな風に対応されるとやはりつらいものですよ」住民の中にはアルコール依存の人もいます。まともに話をしてくれない人もいます。何回出向いても出て来てくれない人もいるそうです。

「状況を把握できていない方のことは、いつも心配でした。何とかしてコミュニケーションを取りたいと焦っても、会ってもらえない。いくら焦ったって、人間一人にできることなんか知れているんです。でも、そう分かっていてもやっぱり焦ってしまう。だって、人の命が掛かっているのですから」大震災後、初めて迎えた冬には、精神面だけでなく、仮設住宅の設備関係でも数多くの問題点が明らかになったそうです。

たとえば仮設住宅の玄関。プレハブの薄い壁やドアでは、結露がひどくて一晩で水浸しになるほどでした。結露の水がドアの下に溜まり、それが夜の寒さで凍りついてドアが動かなくなる。ドアや窓が開かなくなって室内に閉じ込められてしまうことが、仮設住宅に暮らす多くの人たちにとっての不安やストレスの種だったのです。「老人の力ではとても開かないくらい、完全に凍りついてしまうんですよ。こんな時に火事にでもなったら逃げられないと心配している人も少なくありませんでした。玄関の外に風除け部屋を追加工事してもらえるようになって、玄関ドアの凍り付きはだいぶ解消しましたが、それでも工事が遅かったり、スロープ付きの玄関には消防法の関係で風除け部屋を作れないと言われたり、ハードの面でも大変でした」

そんな苦情を聞いて、町の担当者に情報を上げていくのも阿部さんたちの仕事になりました。仮設住宅のハード面の問題のように、町に情報を上げても、そこからさらに県の裁可を得なければ動きが取れなかった例も多かったといいます。「いろいろ考えてくれているのは分かっているんですが、どうしてもスピードがね」。そんな言葉は阿部さんのみならず、被災地の多くの人たちが語っていたことです。

「でもね」と阿部さんが続けた言葉

「仮設住宅などで生活している人たちの、心と体とくらしについての情報を拾い上げていくことが、私たちの仕事の大きな使命です。でも、その一方で、具体的なケアをしなければならない方を何人も抱えています。ケアマネとヘルパーを兼務しているような状態ですね。それに仮設団地のイベントのお世話もしています。たった一人では、なかなか担当する全戸に行き届かないことがあるのも現実です」町では、この春から3人体制にリニューアルして再出発することになっていると阿部さんは教えてくれました。役場では、阿部さんたちスタッフ自身の心と体のケアに気を配ってくれているとも話してくれました。町役場のレベルでは、できる限りのことをしようとしているのだと伝わってきます。でも、住民にとってどうなのか、という視点から見れば、“必ずしも”という状況があるのは否定できません。

「自分たちだけでは、とても回りきれませんから、地域に元々ある社会資源、具体的には人と人のネットワークを活かすことが重要です。たとえば、清水地区仮設団地の自治会長・石田志寿恵さんのような、面倒見のいい人の協力は欠かせません。ほかにも、外からの力に助けていただいたり。そういう色々な手段を組み合わせていくことも大切ですね」阪神淡路大震災を経験した方が、不定期であるものの阿部さんの仕事をサポートするために訪れてくれたり、東北福祉大学の人たちが仮設団地に農園を作ってくれたり。外の人たちからの継続的な支援がありがたいと阿部さんは言います。

「こんな話もあるんですよ。東北福大学の学生さんたちがボランティアで農地を作ってくれている時には、『畑仕事できるのはいつになるのや』なんて期待して話していたのに、畑ができて農作業に誘うと『オレ今日は肩痛くてよ』なんて言って出てこなかったり。難しいものですよ。想像していたのよりもずっとね」「でもね」と阿部さんは続けます。

「無理に進めるんじゃなくて、少しずつですね。少しずつやっていくしかないんです」昨年11月、迫りくる冬を目前に“孤独死を出さない”という使命感を背負っていた阿部さんと、「想像していたのより難しい」、「少しずつやっていくしかないんです」と語る3月の阿部さん。笑顔や声のトーンの違いは、この冬を乗り越える中で直面した現実から染み込んだ何かを反映しているように思えてきました。

少しずつ。被災地の復旧も再生も復活も、少しずつの歩みの先にしかないようです。阿部弘子さん(女川町こころとからだとくらしの相談センター専門員)

阿部さん自身、女川町小乗浜の自宅で被災。ご家族は無事だったが家財を流されたそうです。もともとケアマネージャーとして福祉施設に勤務されていましたが、大震災を受けて現在の仕事に。清水地区と新田地区を担当し、生活に関するさまざまな相談の窓口として活動されています。

取材後記「どうせいつか離れていく仮の場所なんだから、一所懸命やることはない」という人もいるそうです。でも、被災地の復旧の長期化が予想される状況では、3年とか5年といった期間を仮設のコミュニティの中で過ごす状況も十分に考えられます。せっかくだから、住みやすい町になるように積極的に関わってほしいものです。それでもやはり阿部さんは言います。「少しずつやっていくしかないんです」。その言葉に、被災地の今と将来が重なって見えるような気がしました。(2012年3月13日取材)