目が見えないということは、必要なものが欠けているという捉え方だったのだけれどその認識は間違っていたようだ。
著者が見えない人を椅子で例えた表現、「目の見えない人は4本の脚のある椅子を3本にしたのではなく、最初から3本の脚の椅子」というのはなるほどと思った。
おそらく目の見える私が目の見えない状態になっても、3本脚の椅子にはならず脚の欠けた椅子でしかない。
しかし目の見えない人は感覚の使い方を限定しないから、耳は聞くだけでなく見ることだってできるし、足は移動するだけでなく見ることだってできる。
最初から3本脚の椅子なのだ。
人間は世界を同じように捉えているというのは私の思い込みで、見えている人が目をつぶった世界と、見えていない人の世界の捉え方が同じではない。
見える人には二次元で、見えない人には三次元。
見えない人にとっては内部も外部も等価。
私の当たり前は当たり前ではないことが面白い。
そして思い込みは見えているはずの世界が見えなくなってしまう。