ある朝のこと。いつものようにさっそうとスクールバスに乗り込んだ娘でしたが、なぜかいつもと違う席に座ってしまいました。
すると、娘の前の席に座っていた男の子が、娘が座っている席まで身を乗り出して、娘の頭をグーで何度も殴り始めました。
知的障害が重い娘は何が起きたのか理解できず、よけることもせず、ただされるがままです。
スクールバスの児童生徒たちをひとりで面倒見ている添乗員さんは、他の子の世話をしている最中で気づいていません。
わたしとママがそれを制するためバスに乗り込んでいいものかどうか二の足を踏んでいるうちにその行為はやみ、席が違うことに気づいた添乗員さんが娘を本来の席に移動させてくれました。
状況が理解できない娘はなんとなくの違和感を示したつもりなのか、最近のクセであるタコのようなとんがり口をしていました。
結局わが娘が殴られている様を見ているだけになってしまったわたしとママは、ひどく沈んだ気持ちでその日を過ごすことになりました。
滅多にないめそめそ泣き
娘にグーを振るった男の子はもともと他害行為をしてしまう傾向にあり、親御さんもさぞかしお悩みのことと思います。
しかもウチの娘と相性が悪いらしいことは聞いて知っていました。ウチの子はいつもチョロチョロしているし、ずーっと訳の分からないことを歌っているからうるさいよね、ごめんね。
さて、それとはまた別の日。娘が顔にひどい傷を作って帰ってきました。
やはり他害傾向のある別の男の子に手や顔の一カ所だけをひっかかれて帰ってきたことは何度かありますが、この時の傷の大きさと深さは「押さえつけられて何度もひっかかれた」ことが容易に想像できるものでした。
学校でも放課後等デイサービスでも、娘は気分がすぐれない時ほかの子たちから離れて「カームダウン部屋」と呼ばれているスペースに自分から行きます。
しばらくそこで相棒のぬいぐるみと一緒に過ごすなどすれば気分転換できるのですが、その日は他の男の子が突然入ってきて、先生たちの目の届かないわずかな間に娘を引っかいたようなのです。
大きなパニックで泣き叫ぶことはあっても、怖そうだったり悲しそうに泣くことがほとんどない娘が、その日の夜になってめそめそと泣き出しました。以前、手の甲を引っかかれて帰ってきた日も同じように泣いていたので、顔を何度も引っかかれたことはとても怖かったんだと思います。
がまんできない子が集まっている
特別支援学級や特別支援学校も、発達障害児を支援する施設も、障害で「がまんをすることが難しい子」が集まっています。
急激な動きやずっと奇声を発することががまんできない子。そんな声や動きがとても不快で、その子たちを殴ったり引っかいたりすることをがまんできない子。「がまん」という概念の理解すら難しい子だっています。
「障害」とひと口に言ってもその特性や困りごとはそれぞれ違います。「同じ障害者」だから「みんなまとめて面倒を見るのが効率的」なんてことはないのですが、そんな環境のなか先生や支援スタッフの方々は、ひとりあたり複数の子たちの面倒を見なければなりません。
もしも、の想像
よく想像します。もしも「どんな子であっても(学区・校区と呼ばれる)地域の幼稚園保育園、学校に通う」ことになっていたとしたら、どんなようすになるでしょう?
・小さなころから「いろんな子(人)がいる」を経験して育っていく(その中で「嫌い」「関わりたくない」という感情はあっていいと思います。「傷つけない」のであれば)
・「がまんできない子」に対して、他の子はどうする?(○○できない子、に対して○○できる子はどうする?)
・いじめは多い?少ない?どんな子がいじめられる?どんな子がいじめる?
・いまの小中学校より大勢の先生が関われる(いま児童生徒数に対して多くの先生が必要な特別支援学校がなくなれば、その先生たちもあわせたみんなで学校を運営できます)
・児童生徒の特性によって分けた方がいい授業と、どんな子でも一緒に受けられる授業がある(それが「社会の在り方」のヒントなのでは?)
・どんな子も一緒の学校だと勉強は遅れる?「遅れる」って「誰と比べて」?
想像はまだまだ足りていません。インクルーシブ教育には難しい点もたくさんあると思います。
ただ、「世の中にはいろんな人がいる」という事実を、どちらかに寄せたり一部を見せないようするのではなく「ありののままにしておく」ことはできないのだろうか、それは悪いことなのだろうか、なんていつも考えてしまうのです。