フェリー乗り場で多くのうさぎたちに出迎えられましたが、ふれあいはそこそこにして(本当に島中どこでもいるのです)早速移動します。
とその前に、「うさぎの島」とは別の顔を持つこの大久野島の歴史について少し掘り下げます。
大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合い3kmに位置し,数戸の農家が耕作を続ける島でした。昭和2年には,島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となりました。昭和4年には,東京第二陸軍造兵廠火工敞忠海兵器製造所による毒ガスの製造が始まり,昭和20年まで続けられていました。
島内には当時稼働していた施設の跡が点在しています。かつてこの島で行われていたのは、国際条約で禁止されていた毒ガスを大量に製造するという極秘プロジェクト。製造を知っていたのはごく僅かでした。島自体、地図上で消されていたため、島外の人はもちろん毒ガスの存在を知るはずもなく、工場で労働する人さえもそれが兵器とは一切知らされずに進められていました。
もう一つの桟橋
忠海港から乗ってきたフェリーが到着したのは地図の右端にある「第2桟橋」の場所です。
ここが散策がスタート地点なのですが、多くの人は宿泊施設「休暇村大久野島」がある方向へ向かうため、時計回りが一般的なルートですが、自分達はひとまず反時計回りに巡っていきました。(こちらの方が圧倒的に人が少ないです)
ちなみに同じく地図上にある第1桟橋は、広島県三原市まで運航する高速船が発着しています。
乗り場から少し歩くと、現在は使われていないもう一つの桟橋を発見。
実はこの桟橋、広島や呉のための軍事要塞として島に砲台が築かれた日清戦争以降、造られたのだそうです。
毒ガス島と化した昭和時代に入っても、船の発着場として利用されましたが、人がここから出入りすることはありませんでした。本州から近い場所の設置された桟橋なのになぜでしょうか。
それは先に触れた通り、この島で行われていたことは誰にも知られたくなかったためと考えられています。写真の通り、桟橋の先には町や山が見えます。本州からよくわかるため、出入りは島外の人目につかない場所で行われていました。
大久野島を代表する廃墟
桟橋から内陸側に歩き、トンネルをくぐってすぐ見えてきたのがこちらの建物です。トンネルや盛土に植えられた木に囲まれており、日が入らないため、全体的にじめっとした印象。いかにも廃墟マニアがわくわくしそうな外観です。
島内には他にも毒ガス製造期の遺構はありますが、建物としてはおそらくここが一番当時の面影を感じられる場所。
かつてここは工場を稼働させるために必要な電力を供給する発電所でした。建物の中に複数基もの発電機が設置されていたそうです。
また、風船爆弾も作られていました。この島には多くの学生が送り込まれ、毒ガスだけでなくこうした爆兵器の製造にも携わっていたといいます。
風船爆弾は、太平洋戦争中盤から後半にかけて日本軍(陸軍、海軍)が開発し、日本陸軍が実戦投入した特殊兵器。
建物の周りも含めて人は立入禁止されていますが、ちょうど陰になったところで休憩中のうさぎがたくさんいました。
発電所跡以降は上り坂だったため、宿泊施設方面へUターン。しばらく歩くとキャンプ場がありました。うさぎと一緒に過ごすキャンプってどんな感じなのでしょうか・・・。
さらに奥へと進みます。