岩手県上閉伊郡大槌町にはかつて城があった。遠野次郎という武将が室町時代の初め建武の頃に築いた城で、廃城となった後も現在にいたるまで、大槌の町並みを一望できる景勝地として町の人々に親しまれてきた。その名も城山という。
震災の後、城山は被災した大槌の町や復興の様子をつぶさに見ることが出来る場所として、語り部ツアーが必ず立ち寄る場所となっている。
この1年ほどの間に、大槌は大きく変わった。かつては町役場やビジネスホテル寿(カリタスジャパンのボランティア基地として使われていた)など廃墟となった建物が散見されるだけだったが、ビジネスホテルは解体されて別の場所に再建された。跡地は新しい住宅地になっている。解体か保存かで揺れてきた町役場は、解体の方向に大きく動きつつある。(被災した旧町役場は上の写真にも写っているが、どこだか分かるだろうか?)
町を見下ろせるこの場所には、希望の灯りがともされている。
かつて町民のいこいの場だったこの場所には、休日ともなると見学の人たちが引きも切らさず訪れる。希望の灯りから一段下った墓地からは、樹木に邪魔されること亡く町を見渡すことができるからだ。
この場所からはかつてビジネスホテルが見えたと書いたが、その頃、町のほぼ中心にあったビジネスホテルからは、たくさんの倒れた墓石と真新しい墓石が林立する斜面を見上げることができた。
いま、その付近は新たな宅地として整備が進んでいる。城山を見上げると、そこには町を見下ろす見学の人たちの姿が望見される。
城山からこの付近まではクルマで3分もかからない。ほんの数分前に山上から眺めていた町に自分が下り、山を見上げると自分の立つ場所を見下ろしている人たちがいる。
見る、と、見られる。立場は逆転しているのに、移動時間が短いせいか、見ている自分が見られているような、見られている自分を見ているのが自分であるような不思議な気持ちにおそわれる。
あるいは、命を長らえた人たちが立っていた場所と、多くの人が命を落とした場所という対称性がそんな気持ちを起こさせるのか。見ると見られる場所の中間にあるのが墓地だということも、精神に微妙に影響を及ぼしているのか。
私は見ているのか、見られているのか。私は被災したのか、被災者を眺めている場所にいるのか——。
なんとも説明できない不思議な感覚。この感覚をうまく説明することは、いまはまだできないが、それを説明することはとても大切なこと、いつかは説明できるようにならなければならないことなのだということは確かに理解できるのだ。