爆心地公園北側の小高い丘に、平和公園があります。
平和公園にあるこの平和記念像は、天を指す右手は「原爆の脅威」を、水平にのばした左手は「平和」を示し、 軽く閉じた瞼は戦争犠牲者の冥福を祈っていると言われています。
動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り建立されたこの鐘の碑文には以下の記載がなされています。
長崎の鐘よ鳴れ
長崎の鐘よ鳴れ
私達の肉親を奪った
私達のからだをむしばんだ
あの原爆が
いかに恐ろしいものであるか
あの戦争が
いかに愚かなものであるか
長崎の鐘よひびけ
長崎の鐘よひびけ
地球の果てから
果ての果てまでも
私達の願いをこめて
私達の祈りをこめて
私が平和公園を訪れたときには外国人も多くいました。長崎の鐘のもとでは、語り部さんが外国人の方に「よく来てくださいました。」と声をかけ、長崎の鐘に代わって原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさ、平和への願いを丁寧に伝えていました。
昭和30年、長崎市は全国で初めてとなる姉妹都市提携をアメリカ合衆国ミネソタ州セントポール市と結びました。地球星座は恒久平和を願う両都市の友好の証として寄贈されたものです。
乙女の像は、純白のスカートをはいた乙女の左手に、平和の象徴「はと」が止まっています。人類の平和と末永い日中友好を願う中国人民の真心を表しています。
このほかにも、平和公園には世界各国から贈られた平和と人類を象徴するモニュメントが15個あります。上記写真の両国は核兵器保有国ですが、人類の平和を願うモニュメントが形だけのものにならないよう、日本としては世界唯一の被爆国として世界に向けて同じ過ちを繰り返さないように訴えていく必要があると感じました。
原爆資料館
長崎原爆資料館は爆心地公園から少し坂道を登った高台にあります。原爆被爆50周年記念事業のひとつとして、1996年4月に新しく建て替えられました。私は旧原爆資料館には訪れたことがありましたが、新しい資料館には行ったことがありませんでした。
常設展示室は建物の地下2階にありますが、1階からはらせん状の坂を下って行きます。よく見ると壁には時代を表す4桁の数字が所々にあります。坂を下りながら徐々に1945年当時の長崎へ遡っていくような不思議な緊張感を体験しました。
現在の原爆資料館は、以前よりも原爆の生々しさを伝える写真や展示品は少なくなっているような気がしました。しかし原爆が投下されるに至った経過、核兵器開発の歴史、平和希求などのストーリー性のある展示がなされており、以前よりとても観覧しやすくなっていました。
中でも自分が一番印象に残ったのが、「被爆者の訴え」というコーナーでした。写真や展示品だけでは伝わらない原爆投下時の長崎をリアルに感じ取ることができました。核の恐ろしさを後世に伝え残していくためには、被爆者の実体験に勝るものはないと確信しました。しかし戦後72年が経ち、生存されている被爆者も少なくなってきてしまっている中、どのように被爆者の実体験を継承していくかが課題となっています。
祖母が語る原爆体験
長崎に帰省するにあたって、祖母に原爆資料館に行くことを事前に伝えていました。それが理由か分かりませんが、自然と祖母との会話の中で戦時中の話、そして原爆の話を聞くことができました。
祖母は戦時中、浦上地区の岩川町(爆心地から南へ約800m)に住んでいました。高1で学徒動員により幸町(爆心地から南へ約1.5km)の食堂で事務の仕事をしていたそうです。ところが、その職場の上司からひどく苛められてしまい長くは仕事を続けられませんでした。
ちょうどその頃、東京に住んでいた一番上の姉が、東京は空襲がひどい時期で長崎に疎開していたそうです。その姉がまた東京へ戻るときに、子供2人の付き添いを言い訳にして、一緒に東京に逃げてしまったそうです。いま思えば非国民だよね、と祖母は笑いながら話を続けました。
長崎への原爆投下の1日前、祖母の父(私の曽祖父)は空襲を免れるため偶然にも岩川町に残っていた家族3人を1トントラックに乗せて長崎県の時津町に疎開し被爆を免れました。そのまま1日でも疎開が遅ければ全員無事ではなかったでしょう。祖母は東京にいて、新聞の「広島に新型爆弾」、「長崎にも」という報道で、長崎にも原爆が投下されたことを知ったそうです。
8月15日に終戦を迎えた後、8月末になって祖母は長崎の岩川町の自宅が気がかりで長崎に戻ることにしました。長崎に入ると列車は道ノ尾までしか走っておらず、そこからは線路伝いに自宅のある市街地方面へ夏の暑い盛りに歩いていきました。市街地方面はあたりが一面焼け野原になって変わり果てた町の姿は、いまも鮮明に覚えているそうです。自宅のあった場所には、練炭火鉢とアイロン、五右衛門風呂の3つだけしか残っていなかったそうです。
・・・
祖母もたまたま東京に逃げ出さずにそのまま長崎にいたら、幸町で被爆して命を落としていたかもしれません。そうなったら私も生まれていませんでした。自分が生まれてこれたことに感謝し、長崎で起きた悲劇が繰り返されないよう世界へ未来へどう語り継いでいくべきかを真剣に考えていきたいと思います。