だって孫っこが…

最近では震災当時の話を聞くことは少なくなった。何度も繰り返し同じ話をしてきたから、当時の話をしたからといってどうにもならないから、あまり思い出したくないから…。理由はいくつもあるだろう。震災後しばらくは、わたしのように外から来た人に震災の話をしてくれる人が多かった。伝えなければという気迫のようなものを感じることも少なくなかった。それでも震災から6年が経ったいまでは、当時の経験を聞く機会が減った。

最近になって知り合ったり、親しくなった人の中には、毎日のように会っているのに当時のことを聞いたことがない人もいる。

Yさんから震災当時のことを聞いたのは、神戸からのお客さんが来たときのことだった。初めて聞いたその話に体が震えた。地震が起きたとき、高台の職場にいたYさんは、揺れがおさまるや町に下りていったという。

町から高台に逃げてくる人がたくさんいる中、わたし1人が自転車でさーっと下っていったんだ。みんな地震が来たら津波って考えがあったからね、坂道を上がって避難して来る人はいっぱいだった。そんな人たちに逆行して、まるでかき分けるようにして下りたんだ。

Yさんの職場があった場所を聞くと、津波からは完全に安全な場所だった。どうしてYさんはわざわざ高台から町に下りていったのか。

「なんで?」と聞くと、Yさんは逆に驚くように目を丸くして、

だって、孫っこがいたんだもの。孫たちは保育園にいたんだもの。

Yさんの顔には「どうしてそんな当たり前のことを聞くの?」と書かれているかのようだった。

Yさんは坂道を走り下り、保育園に向かった。園児たちはすでにいなかった。避難したのか家に帰されたのか分からない。Yさんは駅近くの娘さんの家に向かった。そこにも孫っこの姿はなかった。

どこかその辺にいるかもしれないと、Yさんは自転車を置き、駅前通りを歩いて探して回った。そのとき知り合いに出くわした。地震の後の駅前通り。人の気配はほとんどない。Yさんは山の方を向いて、知り合いは駅の方、つまり海の方に向いて立って、言葉を交わした。そのとき、面と向かっている知り合いの顔色が変わった。

「逃げろ!津波だ!」

振り返ると陸前高田の駅が津波に呑まれていた。津波は駅舎の何倍もの高さだった。

とにかく走った。走りに走った。あんなに走ったのは初めてだというくらいに。高台への坂道を抜けたときには全身から力が抜けて、へなへなと倒れてしまったというくらいに。

お孫さんも娘さんもYさんが探しにいく前に避難していて無事だった。

Yさんは津波が来ないと思っていたわけではない。地震があれば津波が来るという頭があるからこそ、避難する人に逆行して孫たちを迎えに走ったのだ。

津波てんでんこという。海辺の集落で育ったYさんももちろん知っていた。小さい頃から繰り返し教えられて来た。しかし、孫っこのことを思えば津波てんでんこの教訓すら吹っ飛んでしまう。Yさんの体験はそのことを如実に教えてくれる。

高田の中心部から高台に上る本丸公園の石段。この石段を駆け上がって助かった人も多いという

「わたしたちは生かされているのだから」とYさんは言う。たくさんの、あまりにもたくさんの人がいのちを落とした。生死を分けたのは偶然と呼ぶことすらできないほど些細なものだった。

「わたしたちは生かされているのだから」とYさんは言う。生かされているのだから、できる限りを尽くして生きる。生かされているという思いは、Yさんのいまを支える背骨になっているのだと感じる。