明日はひな祭り。東北でも古い町並みを中心に昔ながらのひな祭りを再現するイベントがたくさん開催されている。岩手県の南の方でいえば、遠野でも大迫(おおはさま)でも石鳥谷(いしどりや)でも千厩(せんまや)でも。陸前高田のように震災で町がまるごと流されてしまったところに暮らす人たちの間でも、流されてしまったものを惜しむ気持ちの現れなのか、どこそこのひな祭りが素敵だよという会話があちこちで聞かれる。
沿岸部から少し内陸に入った遠野市は、震災直後から被災地を支援する前進基地として機能してきた場所だ。もとから沿岸部とのつながりが深かったところ。いまでも、買い物に行くなら遠野という人が多かったり、親戚や知人がたくさんいたりするような土地。
そんな遠野のひな祭りでこんなおひな様(?)に出会った。
遠野のひな祭りは、古くからの民家や商家のお座敷に飾られた昔ながらの雛人形や物語人形(平家物語や太閤記などの物語のシーンを再現した人形)を、町家の雰囲気の中で見せてもらうもらえるのみならず、ご主人から詳しく説明してもらうこともできるというとても素敵なイベントだ。
町家以外でもショッピングセンターや観光案内所など市内の各所で同じような展示が行われている。
ひとつひとつ詳しくご紹介したいのはやまやまながら、ここではその中から一軒、遠野のショッピングセンターといえばここでしょ、のトピア2階の手芸展の店頭に飾られていた七段飾りについて。
遠野に伝わる雛人形の多くはこの地方で造られ伝えられてきた物ではない。ほとんどが商売を通じたの取引で京都方面との物々交換で収集されたものだという。それも、たとえば七段飾りのすべてを一度にということではなく、今年はお内裏様とお姫様、次の年には五人囃子、また次の年には調度品を揃えるといった感じで、長い時間をかけて少しずつコレクションされてきた。
だから、飾られた雛人形を見ると、つくられた時代や様式が明らかに異なるものが混ざっていたりする。それがまた遠野地方の雛人形の面白みでもある。
いろいろな時代のものが混ざっている、というレベルを超えたものが、ひな壇に鎮座していることもある。そのひとつがこれ、兵隊さんの土人形。
どうしておひな様に兵隊さんなの?
手芸店のスタッフでこのひな飾りの持ち主でもある方が詳しく教えてくれた。ひとつには、遠野では端午の節句の季節は農作業が忙しいので、桃の節句に女の子の飾り物と男の子の飾り物を一緒に飾っていたのだという。そんな背景があった上で、
「遠野の近くには有名な花巻の花巻人形のような土人形がありますが、これが花巻人形なのかどうかはよく分かりません。遠野にも土人形をつくる工房はありますので」と説明してくれた。
「どこでつくられたものかはよく分からないのですが、興味深いことにこの人形の背中には昭和十八年と記されているのです。その上、この人形はただのお人形ではなく貯金箱でもあるんですよ」と人形の背中も見せてくれた。それが一番上の写真だ。
昭和18年、1943年がどんな時代かというと、アメリカなどの連合国を相手に始めた戦争が苦境に立たされた時期。開戦当初こそ優勢だったものの、数々の戦いで歴戦の経験者の多くを失い、飛行機や航空母艦、潜水艦などを建造する産業力でもアメリカ一国に対してでさえ10分の1程度だった日本は次第に押し込まれていた。そんな時期だからこその世相が土人形には現れている。
「聞いた話なのですが、当時は郵便局が全国的に兵隊さんの貯金箱を配っていたそうで、これもそのひとつなのかもしれません」
兵隊さんの人形を子どもたちに配る。1銭でも10銭ずつでも貯金してもらって、集まったお金を軍隊に寄付してもらおうということだったのか。
歴史的な雛人形として展示されていた物のほとんどは、正確な製作年代が分からないものばかりだった。その中で唯一といっていいくらい、昭和18年というピンポイントでつくられた時期が判明している人形にそんな背景があったとは!
私たちは時代というもの甘く見てはいけない。時代というものは(いま刻まれていくもの、蓄積されていった先に評価されるのもの含め)新聞紙や歴史書といった平べったい紙の上にあるものではないのかもしれない。
それは、人と人のつながりの中、そしてその中からつくり出される物からも読み取ることができるもの。確たる裏付けもなく、ただ読もうとした人にだけ読み取れるあやふやなものであるもの。もうひとつはイヤな話しながら、歴史をコントロールしようという意思をもっているごく一部の人たちにのみ見えているものなのかもしれない。
色鮮やかなひな壇飾りのお人形の中に置かれた兵隊さんの土人形。その素朴で愛おしい姿と、その人形をこのひな壇に並べてくれた人のこころの中にあるものを、思う。そのこととその思いをぜひともたくさんの人たちと共有したい。
本来的には、おひな様の飾り物に兵隊さんは似合わない。