マルカン大食堂と、私たちの「これから」

かつてデパートだった建物の入口を入ると、そこにはカフェやクラフトショップ、展示ブースやキッズコーナーがある場所に変身していた。デパートというより、誰もが立ち寄れるウェルカムなスペースといった感じ。

マルカン大食堂は日本の未来のリトマス試験紙

マルカン大食堂のお話しを2つ書いた後に、真面目な話を書こうと思っていた。だけど、まじめなはなしって何? と思ったっきり指が止まった。

どうして指が止まったのか、その理由を考えていくと、マルカン百貨店からマルカンビルに生まれかわったこの建物の1階スペースの意味、もっというなら復活の目的や将来のビジョンにあるのだと思い当たった。

そりゃたしかにデパートの大食堂が復活したことは喜ばしいし、いつまでも続いてほしいと思う。その反面、ほんとうに大丈夫なのか? という気持ちもある。おそらくマルカンビル大食堂復活を知った人たちの多くが抱いた感想に違いない。そもそもの百貨店が閉店をするくらいだから、花巻という町が商業環境的に厳しい状況に置かれていると考えるのが自然だと思うからだ。

たくさんの人たちに惜しまれながらの閉店だったと伝えられるが、閉店に追い込まれる前に地元の人たちはどうしてそのデパートを利用しなくなったのか。日食なつこの歌声はノスタルジックという単語だけではとても表現し尽くせないくらいの、激烈な郷愁に溢れている。昭和の時代や昭和から平成に変わった当時の風景を彷彿とさせるものではあるが、ノスタルジックであればあるほど、百貨店が閉店するに至った苦境をつくっていったのが、地元の人たち、意地悪な言い方に過ぎるかもしれないが、そのことに思い至らざるを得ない。

昨年(2016年)の夏祭りの前に花巻を訪ねた際に何人かの人と言葉を交わしたが、その全員がこんな風に話していたことを覚えている。

「あらぁ、花巻の街が一番寂しい時に来て下さったんだね。申し訳ないねぇ。水曜日は賢治の広場もお休みなんだ(その日はまさに水曜日だった)。マルカン百貨店が開いてれば少しは賑わいもあったんだけど、6月に閉店してしまったからねぇ」

その日、花巻の街はたしかに閑散としていた。アーケードというか雁木造というのか、屋根が設えられた歩道を歩く人の姿とてなく、中心地には時折走り抜けていく軽自動車の姿があるくらいで、びっくりするくらいに人の気配が感じられなかった。

花巻ばかりではない。遠野もそう。北上だって一関だって。石巻もそう。北九州なんてまさにそう。もしかしたらいわきだってそうかもしれない。

しかし、マルカン百貨店がクローズした前後の新聞記事を検索してみると、閉店が発表された後、連日たくさんの人がデパートを訪れるようになったのだという。6階の大食堂に至ってはあまりの盛況ぶりから、これまで年中無休だったのが、従業員の健康のために定休日を設けたほどだったのだとか。

時の流れに取り残され老朽化した百貨店が、静かにその歴史に幕を閉じるという感じではない。学校帰りに立ち寄って、友人とおしゃべりしたり、ソフトクリームを食べたりという高校生たちもたくさんいたらしい。若い世代の利用者がたくさんいたというのだから、レトロでノスタルジックな場所というより、その土地の人たちに現在進行形で親しまれきた場所だったということだろう。それでも閉店してしまった。

たいせつなことは、無くなってしまってから、初めて気づくもの——。

そんなありふれたフレーズを繰り返すことに、どれほどの意味があるのかと思う。人類数千年の歴史を振り返るまでもなく、そんなことは1人の人間が生きている間でさえ、何度も味わうことになる感情だから。

若さに期待するだけでいいのか、わかからないが

マルカン百貨店が閉店した理由は、建物や設備の老朽化のためと伝えられる。それがどういうことかというと、建物や設備の刷新を行うための経済的負担に見合うだけのインカムが見込めなかったということになる。閉店発表後にどんなに多くのお客さんが詰めかけても、若い世代に多くの利用者があったのだとしても。

閉店したマルカン百貨店の運営再開に手を挙げたのは、30代の男性経営者だという。地元の木材店の跡取りで、東京ではIT関連企業の経営者もつとめる彼は、マルカン百貨店の協力を得ながら、マルカンビルの再生に取り組んでいる。目玉である大食堂の再開には、設備更新や建物の補強など多額が必要だったが、クラウドファンディングなどで資金を調達。耐震補強工事も含めて10年計画でビルの再生に取り組んでいると伝えられる。

つまり、事業として成算ありと確信した上での取り組みなのだ。

すてきなことだと思う。わたしのような昭和脳の発想では、大丈夫なのかと不安ばかりが募るところだが、マルカンビルの新たな経営者は、単年度決算のアタマではなく、中長期の戦略で事業を受け継いだわけだ。

不安ばかりが先に立ってしまいがちな昭和脳的発想ではない取り組みに注目したい。花巻は直接的な意味では大震災の被災地ではないけれど、より広範に進む少子高齢化や人口減少の渦中にある街であることは間違いない。宮沢賢治や新渡戸稲造の生家があったり、高村光太郎が移り住んだり、古くから岩手を代表する文化都市である花巻の中心市街地がこれからどのような変遷をたどるのか。

日本全体のこれから先を考える上でも、この町、そしてマルカンビルの運営を継承した小友木材店代表取締役の小友康広さんに注目していきたい。遠からずインタビューも申し込むつもりだ。被災で、あるいは被災によらずとも深く疲弊している日本の地方都市の将来を考えていくために。

乞うご期待。