「交通整理の人を出した方がいいんじゃない?」仮設住宅の支援員さんが冗談とも本気ともとれないことを言う。
仮設にたくさんの人が帰ってきた日
大船渡市のある仮設団地の自治会長さんから「イベントの手伝いに来ない?」と誘われて行ってみたら、それは仮設団地のお別れ会を兼ねたパーティーだった。
自治会長さんは東京のアート系団体の現地スタッフも務めているのだが、その日はいつものスタッフTシャツ姿ではなく、おしゃれなジャケットで決めている。その上、「なんとかして60席つくりたいのだよなあ」とアート団体が到着する前から、集会所の中の椅子やテーブルの配置に厳しいまなざしを飛ばしていた。
かつては120世帯以上が暮らしていた仮設住宅団地だが、いまでは10戸ほど。しかも11月一杯での閉鎖も決まっている。以前にも同じ仮設団地でイベントの手伝いをしたことがあるが、集まる人数は10人程度。60席つくりたいという会長さんの言葉を最初は不思議に感じていたのだが、イベントのオープン時間前から続々と詰めかけてくる人を見てようやくこの日の『意味』が理解できた。
来場する人の多くは車でやってくる人。ジャケット姿の会長さんが集会所の前で1人ひとりに「元気だった?」「久しぶり」と挨拶する。
いま、被災地の多くの自治体で仮設住宅の『集約』が進められている。集約とは要するに仮設団地の数を減らすということだ。災害公営住宅や自主再建した家へ移り住む人が増えていくことで仮設住宅の入居者数が減少している状況に加え、公共施設、とくに小中学校の敷地に建てられた仮設住宅を早めに閉鎖して教育の環境を元に戻したいという背景もある。(地元の新聞には、最近やっとグラウンドが震災前と同じように使えるようになった大船渡市内の小学校で「入学して初めてグラウンドが使えるようになってうれしい」という6年生のコメントが紹介されていた。6年生が入学して初めてグラウンドを使える! 震災からの5年という月日はそういうことを意味している)
仮設の集約それ自体はいいことなのだろう。かつての生活環境が取り戻されていくのだから。
仮のものなんかではない仮設での日々
お別れ会を兼ねた仮設の集会所のパーティ会場では、たちまちかつての仲良しグループの輪ができていた。各々に会話に花が咲く。後からやってきた人に、「○○さん、こっちこっち」と声がかかる場面もしばしば。最も多いときで120世帯いた仮設団地に今では10世帯ほどしかいないということは、この日のパーティに訪れた人の大半が、すでに別の場所に引っ越していて、久しぶりに仮設にやってきたということ。東京からのアート団体の協力で実現できた『仮設へのお別れ会』といった様相になってきた。
その上、この団体はこれまで何度もこの仮設団地を訪問してきて、1人ひとりの名前を覚えているくらいだ。あの時は楽しかったねと思い出話にさらに花が咲く。半分お別れ会、半分同窓会といった感じの懐かしくて、再会できたことがうれしくて、いつまでもこうしていたいような不思議な空気が集会場に満ちて行く。
アート制作も早々にというと、遠路はるばる東京からやってきたアート団体の人たちに叱られてしまうかもしれないが、団体の人たちも自治会長さんも、もちろん参加した人たちも『今日のメインは懐かしい人たちとの再会』だと心得ていた。食事会でのおしゃべりの盛り上がりは大変なもの。会話があちこちから飛び交って、付いていくのに精一杯。
「だけど、こんなに大勢の人が集まることってこれが最後なのかもしれませんね」と仮設団地の支援員さんにつぶやくと、彼女は顔をブルブルッと横に振って「今日はそんなこと言わないの」と小声で制された。仮設がなくなるということはたしかにいいこと…ではあるけれど、まあ半分いいことって感じなのかもしれない。
仮設住宅とはいえ、この団地で暮らしたおよそ5年の日々は決して仮のものなんかではない。そこで培われたつながり、いいことも悪いことも辛いことも含めたたくさんの出来事、積み重ねられてきた時間があってはじめて『いま』がある。
パーティが終わりに差し掛かった頃、東京のアート団体がこれまでこの仮設団地での活動を振り返るスライドショーを上映した。
何度も何度も行われたアートプロジェクト、屋外での活動、パーティ、花火大会、そして仮設住宅で誕生した子どもたちの姿…
「なつかしいなあ」
「こんなこともあったなあ」
「まだあの頃は人がたくさんいて、仮設も明るかったな」
「そうだよ、今なんかみんながいなくなったから夜は真っ暗なんだぞ」
パーティの後、集会所の出口は握手とハグの長い列ができた。パーティがお開きになった1時間ほど後、片付けを終えて車を出そうとしたら、いまもこの仮設団地に残って暮らしている1人の女性が駆けてきて、アート団体の人たちに抱きつくように、飛びつくようにして見送ってくれた。「みんながいなくなって夜は真っ暗だ」と言った女性だった。
「次はどこに行くのか決まってるの?」
「警察」
「???」
警察署の近くの災害公営住宅という意味だった。そこにいたみんな大爆笑。最後までなごませてくれたこの女性は自宅を自主再建する予定だという。それなのに一旦は災害公営住宅に引っ越すことになる。
5年間の仮設住宅でたくさんの知り合いができた。助け合っていろいろなことを乗り越えてきた。でも仮設の知り合いはばらばらになる。知り合いもいない災害公営住宅に入居して、もう一度友だちづくりから始めなければならない。さらにその後には、自主再建した先でもう一度。明るい彼女のことだから、どこに行っても人気者になれるだろう。とはいえ震災当時から5つも歳をとっている。不安がないはずがない。車のエンジン音に気づいてお別れを言いに走ってきた彼女の気持ちを思う。
学校のグラウンドを子どもたちに返すことができるのはとてもいいこと。そもそも仮設がなくなるということ自体、本来いいことなのだろう。しかし人それぞれにいろいろな事情がある。だから気持ちとしては、半分だけいいこと。
仮設がなくなる前に、仮設で培われたものの意味をもう一度。そしてここで作り上げられたつながりが、どうにか次の生活の場にも引き継がれることを。