1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されたその日、岩手県釜石市には鉄の雨が降り、多くの命が失われた。
第二次世界大戦中に就役したアメリカの戦艦3隻を主幹とする第34.8.1任務隊にイギリスの巡洋艦を加えた艦隊が、この日12時47分からおよそ2時間に渡って釜石市に砲撃を加えた。当時アメリカ最大の16インチ砲弾803発を含む合計2,781発が市内に向けて発射され、町は壊滅した。
釜石市が艦砲射撃を受けたのはこの日が2度目で、最初の艦砲射撃は7月14日。この砲撃は日本本土が受けた最初の艦砲射撃でもあった。
「カンポウシャゲキ」という言葉はあまり聞き慣れないものかもしれないが、この夏、大船渡市の高校生が行ったアンケートで、戦争から連想する言葉として「艦砲射撃」を挙げた人が多かったという。東北の海辺の町には、71年前の悲惨な記憶が今も語り継がれている。
艦砲射撃とは文字通り、戦艦などの軍艦に搭載した大砲で地上を攻撃することだ。
釜石を攻撃した戦艦の16インチ砲弾は直径約40センチ、重さは1トン近くもある。地上攻撃用の砲弾は、内部に小型の砲弾が無数に仕込まれていて、それらが着弾爆発とともに周囲に飛散することで大きなダメージを及ぼす。
1発1トン弱の砲弾が約800発ということは、B29爆撃機の爆弾搭載能力に換算して約150機分ということになる。狭い釜石の町に、東京大空襲のおよそ半数に相当する火と鉄の雨が降り注がれたわけだ。
釜石砲撃の主要な目標は製鉄所だとされるが、砲撃は工場のみならず周囲の住宅にも及んだ。着弾は当初山の方から始まり、徐々に着弾地点が海側に移動。砲弾に追われて平地へ逃げた人たちが砲撃と、その後に飛来した艦載機による銃爆撃の犠牲になったという証言もある。
この日の砲撃で271人の命が奪われた。7月14日と合わせると、死者は756人にのぼる。
壊滅した製鉄所の再開は、3年後の5月までまたねばならなかった。
製鉄所は第1回目の被害から辛くも復旧し操業を再開できる状態になっていましたが、この攻撃により工場は完全に破壊され、機能を停止してしまいました。
2度の艦砲射撃により街は廃墟と化しました。多くの人々が負傷し、あるいは命を奪われ、また財産を失いました。
死者の中には連合軍捕虜、中国・朝鮮半島の労働者、軍関係者も含まれています。軍関係者のうち特に多いのは、7月14日釜石沖に停泊中艦砲射撃を受け、沈没した第48号駆潜艇の乗員で、28名が死亡しています。
艦砲射撃とあわせて、艦載機による機銃掃射が行なわれましたが、米軍による記録が残っておらず、詳細は不明となっています。機銃掃射では釜石のみならず近隣する市町村でも被害を受けています。
第二次世界大戦では戦艦こそが最強という神話は崩れ去り、航空兵力が戦場を支配するのが常識となっていた。それでも、昭和20年の夏、東北や北海道の工業都市は米英の戦艦、巡洋艦による艦砲射撃をこうむった。このことは、わずか数10キロ沖合の軍艦を追い払う力すら、当時の日本軍に残っていなかったのを意味する。戦力の差がそこまで拡大しても、非情の鉄の雨は降り注ぐ。敵の抵抗力を無化するまで攻撃の手が緩められることはない。そして、多くの市民の命が奪われる。
釜石市に鉄の雨が降り注いだのは8月9日。長崎に原爆が投下されたのと同じ日。それからわずか6日後、日本の敗戦を告げる玉音放送が全国に流されることになる。