その日、数時間前に堤防で
震災当時82歳だった柧木澤(はぬきざわ)正雄さんは、同年代の男性3人で、午後2時頃から3時頃まで海岸の防波堤を散歩するのが日課だった。2011年3月11日、その日に限って午前中に出かけると、2人のメンバーもその時間に来ていた。言い合わせた訳ではなかったが、いつも通り散歩をした後、堤防に腰を下ろして昔話にひたっていたという。
俺たちが小さい頃、橋の向こうに『津波記念』と彫った大きな石があり、その上にあがって遊んだもんだった。今では向かい側に道路が出来て、あの石が道路の下になって約半世紀近くなる。誰の記憶からも消え去り、永久に日の目も見ないでこの世から没してしまうなんて惜しいなあ。今あれば、『津波を考える石』として町の文化財にもなってたのになあ。
引用元:平成23年3月11日 平成三陸大津波(東日本大震災)その時 私は… 大船渡市三陸町吉浜の人々の記録 |吉浜地区公民館
柧木澤さんのそんな言葉に、友人のひとり柿沢門弥さんは冗談のようにこう応えた。
そのうち大きな津波が来て道路も流され、また姿を現す時は来るさ。
引用元:平成23年3月11日 平成三陸大津波(東日本大震災)その時 私は… 大船渡市三陸町吉浜の人々の記録 |吉浜地区公民館
まさにその日の午後に起きた世界を震撼させる大津波によって、吉浜の津波石は半世紀近い眠りから再び地上に姿を現したのだった。
瓦礫の下から再び現れた津波石
吉浜の津波石は、明治の三陸大津波を機に集落のほとんどが高台移転した後、田んぼにされた平地からさらに海よりの砂浜、護岸工事が進められている現場近くにあった。案内表示も説明プレートも、震災の遺構であることを示すなにもない。周囲に柵が巡らされているでもない。
やませ(夏季の東風)に煽られて発生するガスがたなびく海岸近くに、5年前、重機で掘り返された時のまま、まるで放置されているかのようにその場所に鎮座していた。
刻まれた文字を指先でたどるとこう読めた。
津波記念石
前方約二百米突 吉浜川河口ニアリタル石
昭和八年三月三日、津波ニ際シ打上ゲラレタルモノナリ
重量八千貫
引用元:吉浜の津波石に刻まれた文字
柧木澤さんたちは、明治の大津波によるものなのか昭和の大津波の時のものなのか判らなかったというが、碑文からこの津波石は、もともと河口から200メートルの場所にあったものが、昭和8年3月3日の昭和の三陸大津波によってこの場所まで打ち上げられたものだと判明した。800貫は30トンである。
写真を撮影するに際して、大きさの目安になる物か人を連れて行けばよかった。縦4メートル、横3メートル、高さ2メートルの岩は、写真の印象よりはるかに大きい。柧木澤さんたちが子どもの頃、上にあがって遊んでいたというのもうなづける。
しかし、この津波石は前述の通り、一度は道路工事のために埋められていたものだったのだ。
埋められてしまった津波石
吉浜で過去の津波で打ち上げられた津波石が見つかったという話は、2011年の震災直後から何度か報道されていた。震災後、吉浜を訪ねるたびに探してみたが、ずっとお目にかかることができなかった津波石に、今回やっと出会うことができた。
津波石がすぐ足下にあったのは意外だった。防潮堤工事が進められる海岸線の外側、吉浜漁港へ向かう山沿いの道の下、かつてあっただろう白砂青松の浜が見渡せるような場所に。2011年に再発見されて以来、さかんに報道された出来事だったので、津波石は震災の遺構として大切に保存されていると思い込んでいたのが、これまで見つけることができなかった最大の理由だろう。
しかし、考えてみれば、このように重要な遺構が忘れ去られていたということにこそ、この津波石の「遺構」としての意味があるように思う。
そこには、あるいは、明治の大津波で死亡・行方不明約190人という大きな被害の後、全村で高台移転を実行し、昭和の三陸津波では、人的被害を最小限に食い止めることができたという事情が働いているという見方もできるかもしれない。(昭和の三陸津波では死亡・行方不明者17人、東日本大震災での地域内での人的被害は行方不明者1人、隣の集落の老人ホームで11名が犠牲になった)
人は忘れる。そのことを知っているからこそ、惨禍を後世に伝えようとする。しかし、対策の功が成るとともに危機意識は薄れ、やがて遺構まで土に埋めてしまうことまでなしかねない。
東日本大震災で吉浜地区は、隣接する地域の甚大な被害に比して「奇跡の集落」と呼ばれた。しかし、奇跡の町で、東日本大震災の津波によって、78年前の戒めが再びこの世に姿を現したことの意味を、私たちは忘れてはならない。
奇跡の町、奇跡の集落。そんな言葉だけで、災害を理解することはできない。