山門の二体の像が語ること【釜石市・石応禅寺】

釜石市大町、イオンタウン釜石からも近い街の中心部に位置する古刹「石応禅寺」。山門の両脇には二体の地蔵菩薩像が半跏のポーズで鎮座している。青銅製の菩薩像の横に建てられた石柱には「津内到達の地」。さらに、「今次の震災が永久に教訓と成ることを願ってこの地に建立する」と刻まれている。

山門に向かって右の石柱には「東日本大震災 2011年3月11日」とある。「今次の震災」が5年3カ月前の東北を襲った大震災だということが、石柱の新しさとともに示されている。

では、石柱の横に鎮座する二体の菩薩像もまた「今次の震災」の教訓を伝えるために建立されたものなのだろうか——。

こたえは「No」だった。山門に向かって左手の地蔵菩薩像の横には「明治丙申海嘯紀念之像」とある。菩薩像は1896年(明治29年)6月15日、釜石沖を震源として発生した明治三陸地震の犠牲者を慰め、被害の記憶を後世に伝えるために建てられたものだったのだ。

明治三陸地震では、三陸地方一帯を襲った巨大津波によって、2万人以上の死者行方不明者という大きな被害をこうむった。

37年後の1933年(昭和8年)3月3日、釜石はじめ三陸地方沿岸部は再び、昭和の三陸津波に襲われる。このとき、避難所となった石応禅寺本堂の様子は、「岩手県昭和震災誌」に写真でおさめられている。本尊の前に布団を敷き詰めて、いったい何人いるのか分からないほど多くの人が避難している様子は、モノクロ写真ながら東日本大震災や、2カ月前の熊本地震の直後の避難所の様子を思い起こさせるものだ。

石応禅寺は1665年の創立という。昭和の三陸津波のみならず、明治の津波でも江戸時代の津波でも同様に、釜石の人たちを守ってきたことだろう。

そう考えると、街の中心部に位置する石応禅寺や、寺の山手、斜面の上へ上へと広がる、市内からも見える大規模な墓所も、釜石のまちの歴史の一部であったのだと飲み込める。

たくさんの人が地震や津波で亡くなった。しばらくしてまた多くの人が亡くなった。さらにまた、津波で多くの命が失われた…

二体の地蔵菩薩像の台座に、陽刻で飛び出すように刻まれた「明治丙申海嘯紀念之像」という文字が意味することが迫ってくる。

「明治丙申海嘯紀念之像」と記されてはいるものの、この像は明治29年、丙申の年に大津波があったことの記録ではない。

「今次の震災」を教訓として伝え、将来の人々の被害を軽減することにつなげていくことはできるのだろうか。私たちはこれからも、大きな災害を体験するたびに、慰霊碑や記念碑をつくり、「今次の震災が永久に教訓と成ることを願ってこの地に建立する」と記し続けることになりはしないか。

山門前に向き合って鎮座されている二体の仏様を、一枚の写真に一緒におさめることには、引っかかるものを感じた。

6月15日、明治の三陸津波から120年になる。

120年前、町が壊滅するのを目の当たりにした人々が何を思い、何のために地蔵菩薩像をこの寺に建立したのか。私たちは忘れてはいないはずだ。

石応禅寺(せきおうぜんじ) 山門