【シリーズ・この人に聞く!第72回】ジャンルを超え美しい音色を奏でるピアニスト 小原孝さん

ピアニストにもいろいろなタイプの方が活躍されていますが小原孝さんはクラシックにとどまらず、童謡・ジャズ・ポップス・映画音楽・オリジナル曲など多岐にわたります。ジャンルにこだわらず、音楽の良さを伝えられています。繊細な音色を奏でる小原さんですが、子どもの頃から曲がったまま左手薬指のハンデを克服しました。その後、左手薬指も腱断裂してピアニスト生命を脅かされる危機を乗り越え、今、ピアニストとして絶対の地位を築いておられます。幼少期の頃から、現在の活動までお話し頂きました。

小原 孝(おばら たかし)

神奈川県川崎市生まれ。クラシックギタリストの父の影響を受けて6歳の頃よりピアノを始める。国立音楽大学大学院を首席で修了、クロイツアー賞受賞。大学を経て国立音楽大学大学院を首席で修了。終了後、本格的に音楽活動を始める。
1990年、CDデビュー以来30枚以上のソロアルバムをリリース。最新アルバムは「小原孝のピアノ詩集~SWEET MEMORIES~」(松本隆作品集)10月5日発売。全国各地でコンサート活動を行う他、多数のテレビ・ラジオへの出演。NHK-FM「弾き語りフォーユー」のパーソナリティーを担当。13年目に入り現在も好評放送中。8~9月には一昨年に続き、2度目となる教育テレビ(ETV)ピアノレッスン番組「あなたもアーティスト!小原孝のピアノでポップスを弾こう」講師を担当。奏楽堂日本歌曲コンクール優秀共演者賞を3度受賞、作曲部門「中田喜直賞」も受賞。
近年はソロ・伴奏の演奏活動に加えて舞台の演奏、音楽監督、作詞、作曲、編曲、歌手、音楽教育など様々な音楽活動にも力を入れピアノを自由に操るマルチピアニストとして活動。
さらに趣味で始めた水泳では第6回ベストスイマー賞を受賞。チャリティー活動も積極的に行う。現在 川崎市市民文化大使 尚美学園音楽大学客員教授 国立音楽大学非常勤講師

ギター教室を営む家で音楽に囲まれて育つ

――小原さんのお父様はギタリストでいらしたと何かで読みました。音楽を楽しむ環境がもともとあったのですね。

父がギタリストでしたので、家はクラシックギターの教室を営んでいました。僕は3才違いの男ばかり3人兄弟の長男。兄弟ケンカも沢山しましたしドタバタな毎日でしたが、それぞれ皆楽器を習っていました。父は僕をギタリストにしたかったと思いますが、最初にピアノを習ってそのままピアノを続けてしまいました。隣の部屋でずっとギターの音を聴いていたせいか、気付いた時には絶対音感がありました。それで父は「音感があるならとりあえずピアノを習わせてみるか」…と。

クラシックギターの教室を営む家庭で、常に音楽が身近な環境で育った。

――それじゃエリート教育ですね。音楽の環境もご家庭で整っていらしたし。

僕の左手薬指は生まれつき曲がっているんです。だから、その指を使わずに演奏することを覚えた。指が動かないのですから、プロになるのは無理だね、と最初から言われていました。ですから、練習していかなくても叱られなかったんです。ハンデがあっても、いくらでも演奏するやり方は見つかります。自分がそうだから、僕はピアノを上手に弾けない人へ教えることは、とても上手。

――とてもポジティブに捉えてらっしゃいますが、小さな頃からその指だけが動かなくて思いつめたりしたことは?

あまり真面目に練習していなかったので(笑)。うまく弾けなくても怒られないし「動かない指があってラッキー!」みたいに考えていました。ピアノを習い始めると必ず毎週宿題が出ますよね。僕は課題曲が大嫌いでしたから、どうしたかというと、家では一度も練習しないで先生の前で集中して一度うまく弾ければ合格、そうやってずっと乗り越えてきていました。あとは、自分の弾きたい曲を自由に弾いていた。今考えるとそれが即興の練習になっていたような…。

――中学受験をされて付属中へ入学されましたが、ピアノをずっと続けてこられたのですか?

自宅が音楽教室でしたが小学3年生になって塾へ通い始めてから、ピアノを習うのはやめてしまったのです。たまたま第一志望の受験校の傍に国立音大付属中学もあって、ついでに願書をもらっておくか、というノリで。受験日も1日ずれているし、ソナタを1曲弾けばいいだけなら…と受験しました。見事、第一志望に滑って、ついでに受けたほうが合格。そこからのレッスンは先生探しから始まって大変でした。もちろん他の生徒は受験のために課題曲を弾けるように猛練習して入学していましたから。僕がピアノちゃんとレッスンを始めたのは中学入学してから。入学した当時は80名のうち2名男子、もう一人の男子は超優等生でしたが、僕は一番の劣等生でした。

力を伸ばしてくれる先生との出会い

――音楽の付属中へ入学されてからは、どんな指導者に出会われたのですか?

当時のピアノの先生は、「教えた通りに弾かないと破門よ!」というタイプがほとんど。そんな中で僕が出会った先生はそうではなかった。まず最初に言われたことは「こんなに下手くそで、しかも男子でよく音楽大学の付属中に合格できたものだ。薬指も曲がっているし、この先どうするつもり?ピアノでプロになるのは難しいだろうから、ピアノ以外の勉強をしっかりとやりなさい」と。僕も、偶然合格してしまいこれから大変だなぁと思っていたところでしたが、先生は僕のピアノを聴いて、「下手だけれど何か他の人とは違う力がある」と認識してくださった。その力を伸ばしてくださる方向で指導して頂きました。

本格的なピアノレッスンを始めたのは中学校へ入学してから。

――その子が持っているキラリとした才能、力量、特徴を見つけてくださるのも良い指導者ですね。

そうですね。ですから中学でピアノの成績だけはなぜか良かった。5人くらい選抜メンバーが選ばれるのですが、その中には常に入っていました。「他の子は入って当然だけど、なぜあなたが選ばれるのかわからない」とよく言われました(笑)。音色が違う、弾き方が変わっている、など個性的ではあったのでしょうね。小さな頃からほとんど基礎的な練習をしていなかったですから、中学入学後にようやく練習する態勢づくりができました。で、案の定落ちこぼれました。中学、高校と練習がつらくて(笑)。大学院を出る時は首席で修了しましたが、実は大学進学と大学院進学の際、それぞれ1年余計に勉強してから進学しています。付属時代の後輩とは、大学で同級生。大学院ではむこうが先輩(笑)。人より長く勉強しました。

「下手だけど何か違う力がある」と指導者に認められ猛練習の結果、メキメキと頭角を現した。

――人よりたくさん勉強をされてこられているからこそ、今があるのかもしれませんね。

大学進学する際に1年浪人生活がありましたが、僕があまりにも勉強をしないことを見かねて両親から「大学に行くなら自分で費用は捻出しなさい」と言われたのです。現役で音大を受験し落ちて1年間アルバイトをしながら学費を稼いだ。4年間大学で真面目に勉強したとはとても言えませんが、学費を自分で稼いで払って通ったという自慢はできます。

――音大は学費が高くて大変なのにスゴイことです。アルバイトは弾き語りとか音楽関係で?

最初は何でもやりました。ウエイターとか電話番なども。バーで弾き語りもしました。大学2年から音楽教室の講師。全部いい経験でした。たとえばバーで酔ったお客さんからリクエストがあれば、知らない曲でも弾かないといけなかったですし。子どもに教えることも、僕自身が練習大嫌いでしたから、その気持ちがよくわかる。なぜ嫌いかというと練習曲がつまらないからなんですね。だったら楽しい練習曲を作ればいいと考えて、その子のために楽しい練習曲を作ってあげる。それが今、いろんな曲集になっている。嫌々弾くより、楽しんで弾いた方が絶対に上達は速いものです。

指の怪我をきっかけに猛然と練習に励む

――小原さんはピアノの先生を指導されていらっしゃると伺いました。子どもたちに教えるのとは全然違うと思いますが、大切なポイントとは?

音楽的な点でいえば、ショパンやソナタなどコンクール向けの曲を勉強するのはもちろん大事なことですが、実際子どもたちに指導する時は難しい曲だけでなく、子ども向けの教材を研究したり、どういうふうに指導するのかも重要なポイントです。残念ながら音大のカリキュラムでは、簡単な曲をどう弾くかは教わらない。ですから「猫ふんじゃった」でさえ、『あんな猫ふんじゃった、弾きたい!』と子どもに思ってもらえるような曲づくりを指導者は出来ないといけない。難曲を弾くのと同じレベルでやさしい小品を心をこめて演奏できる先生を目指して厳しく指導します。

学生時代は練習が好きでなかった分、好きになる練習方法を熟知している。

――ご両親、特にお父様は音楽家として小原さんがピアノを続けることに、どんな教育方針をお持ちでしたか?

とにかく本人のやる気次第という考え方でした。無理やりやらされているのならやめたほうがいいと。だから「練習しろ」とは一切何も言われませんでした。それで「やる気がないなら大学へ進学する必要はない」と宣告されて……そう言われて、ピアノを本気でやりたい自分に気付いたわけです(笑)。そして本当に音楽を一生やりたくなったのは、もっと遅くてデビューしてからです。仕事になったら演奏に責任をもたなくてはならないし、楽譜を見てパッとすぐ弾けるタイプでしたので、学生時代はあまり練習をしなかったのですが。プロになってから練習時間がすごく増えた(笑)。

――それって、やはりプロならではの意識でしょうか?

僕の場合、左手薬指が生まれつき動かなかったわけですが、途中で小指まで動かなくなってしまったんですね。演奏中にじん帯が切れてしまったのです。33歳の頃、3枚目のソロアルバムを出した時でした。すごく簡単なところで弾き間違えて、なんで今日はこんなところで間違えるのだろう?と思ったら、小指がぶらぶらしていた。でも演奏自体は1日休んだだけで、あとはギプスをはめて弾いていました。ギプスを取ってからも小指は動かなかったのでリハビリを兼ねてようやく真剣に練習をするように。その時、先生に言われたのは「治そうとか、完璧に戻そうと思うのは無駄。嫌ならやめなさい。続けたいならその指で最善の音楽を作れるような研究をしなさい。あなたしかできない音色を弾きなさい」と。

――個性的な弾き語りに、そうしたエピソードが詰まっていたわけですね。ピアノを習っている子どもたちに何かメッセージを頂けますか?

子どもたちにピアニストになるための指導は特にしていません。そして、決まった教育方針もあまりない。そうではなくて習う子ども一人ひとりの力、環境などをみて指導方法を変えています。ただ上手になるためだけの練習でなくていいし、たとえば成長過程でいったんピアノを辞めざるを得なくても、また戻ってきたいなと思ってもらえるように教えています。音楽は無くても生きていけるけど、あったらより幸せに、豊かになれるものですから。それから習うだけでなく、人前で弾く機会を得ることも大事。聴く人がいるから弾くのです。先生に褒められたい、コンクールで上位を目指すため…というよりも、誰か大切な人のために弾いてあげたいという気持ちになってほしい。誰かに何かを伝えるための演奏であってほしい。それってもしかしたら普通のピアノの先生はあんまり教えないことかもしれませんが。

編集後記

――ありがとうございました!私自身、幼児期に6年間もピアノを習っていましたが、残念ながら練習大嫌いなまま卒業。本当にもったいなかった。小原さんの演奏は軽やかでもあり、熱を帯びたものもあり、聴いているうちに乾いた心が水を吸うようにグングン元気になってくるような、そんな音色です。お話しのされた方もとってもやさしく、きっと声を荒げて怒ったりされない方なのだろうな~とお見受けしました。いったんピアノから離れてもまた戻ってきたいと思ってもらえるように指導している…という言葉がとても印象的でした。それはどの習い事でも同様かもしれません。子どもに考えるだけでなく、大人こそ昔やっていた習い事を何か始めてみませんか?

取材・文/マザール あべみちこ

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