【シリーズ・この人に聞く!第30回】ヴァイオリン奏者、ヴィオラ奏者 真部裕さん

弦の音色がまるで生きている人の声のように美しく心を溶かす音楽を奏でる真部裕さん。音楽一家から生まれた新星のヴァイオリニスト。クラシック一本なのかと思えば、クラシック中目でユニークなユニットを結成するエネルギッシュな一面も。今年は森山直太朗さんの全国ツアーにも出演中。演奏者として、幼児時代のどのような体験が土台になっているのかをお聞きしました。

真部 裕(まなべ ゆう)

1980年札幌生まれ。7歳よりヴァイオリンを始める。
1995年東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校に入学。
1998年同大学へ進み、同時にスタジオワークを開始する。2002年同大学を首席で卒業する。
2004年及び2005年に作曲家/チェリスト丸山朋文と共に「スネーク」名義で2枚のアルバムをリリース、ツアーを敢行し、会場総立ち(+ダンス)の大好評を博す。
2005年ジャズピアニスト森下滋とのユニット「ANOVIVO」でオリジナル楽曲、Jazzスタンダードを収録したCDアルバムをリリースする。
これまでにソリストとして東京フィルハーモニー、東京藝術大学管弦研究部、ソロコンサートマスターとして、仙台フィルハーモニー、神奈川フィルハーモニーと共演している。
テレビ出演では、NHKBSふれあいホール、BSあなたが選ぶ映画音楽、シブヤライブ館等。数多くのアーティストから厚い信頼を得ている理由は様々なジャンルから影響を受けたスパイシーな表現の絶妙なミックス具合にあるが、実際、大の辛党で札幌のスープカレーがソウルフード。

ヴァイオリンに憧れた幼少期、音楽一家で育った末っ子

――真部さんは家族全員が音楽をされるご一家でお育ちになったとか。小さな頃からヴァイオリンには親しまれていたのですか?

我が家は5人家族で、皆が音楽に携わっています。現在は、畑を耕しながら作曲活動をしている父は、ジャズサックス奏者を経てから中学校の音楽教師を務めていました。母は声楽家で、今も地元の札幌を中心に歌ってます。4つ上の兄は、高校で音楽の先生として教鞭をとっていますが、チェロを弾きます。2つ上の姉は、養護学校教師で、幼少の頃から声楽とピアノを学んでいました。そうした環境で育ったおかげで、ぼくは物心ついた時には鍵盤をさわり、耳で聞いたメロディーを再現していたようです。親もビックリして「この子は天才かもしれない!」と喜んだみたいで(笑)。ヴァイオリンを始めた7歳(小2)の頃から、練習しなさいと言われた記憶はありません。
僕もそんなに練習が好きでなかったので(笑)。

音楽教師の父、声楽家の母のもと、4つ上の兄、2つ上の姉とも楽器を奏でる一家に育った。

――ご兄弟が2歳違いでいらっしゃると、楽しい幼少期だったのでは?

2歳上の姉は、末っ子の僕のことをとても可愛がってくれて、僕も姉を慕っていました。でも一番上の兄と姉は仲が悪くて、おまけに兄は典型的なジャイアンみたいな存在でした(笑)。兄は部活でラグビーをやっていたりもして、体格もよかったので、ぼくにとってそれはそれは怖かった。でも今は、仲が良いんですけれどね(笑)。

――男兄弟って、力づくなところが往々にしてありますよね。それも愛情表現の一つだったりで。ところでヴァイオリンを習うきっかけになったことというのは?

テレビでN響アワーを見て「かっこいい。ヴァイオリンを弾きたい!」と思ったらしいんです。それで両親がヴァイオリンを買い与えてくれて、知り合いのツテで良い先生と出会い、指導して頂いていました。その先生との出会いが僕にとっては本当に大きなものとなり、それこそヴァイオリンの持ち方から、芸大附属高校に入学するまで約8年間ご指導いただきました。札幌のヴァイオリン指導者といえば、この先生!という有名な方だというのは、後で知ったことですが。

――そうした指導者の方との出会いは大きいですよね。それで高校は芸大付属に合格されましたが。そもそも15歳くらいで親元を離れて生活……という決断ができたのはとても大人だったのでは?

僕が合格できた時はラッキーなことにヴァイオリン専攻の受験者が少なく、半分近く合格できたみたいです。親には、「合格したら、その先の東京暮らしも考えてやる」と言われていました。その後運よく合格して、単身で上京してから部屋の窓が歪んで開かないアパートに
入居し、お風呂もない生活が始まりました。北海道で育ったのでゴキブリを見たことがなかったのですが、生まれて初めてゴキブリを至近距離で見る生活になって(笑)。家を離れたい年齢でしたので、ホームシックにはなりませんでしたし、楽しかったですね。

自然に囲まれた環境でスポーツ大好きな少年時代

――でも、芸大付属高校を目指すのは、誰もが小さな頃から音楽を学んでいるいわば天才児。高校だけじゃなくて、大学に進まれてからも首席でご卒業されていらっしゃるんですよね。

確かにそうなんですが、優秀とかではなくて。大体、高校入試の際も、「きみのような実力で芸高に入学した歴史はない」と言われ続けていましたし。大学でも教授のネタに何となくこいつにしとくかみたいなノリで選ばれた気がしますね(笑)。

8歳のお誕生日。かわいらしい頃だが、既に7歳からヴァイオリンを始めていた

――天下の芸大首席をくじ引きで選ぶようなことはありませんよ!今までどのくらいの練習をされてきたのですか?

芸高入試の時は、学校の無い日はご飯を食べる以外はずっと練習する日もあり、気づいたら最大14時間位狂ったように弾いている日もありました。受かりたい!という気持ちも強かったです。家には半地下の部屋があって、夜は練習に使いたい放題でした。芸大付属高校へ入った友達とはお互いに刺激しあえる関係でした。

物心ついた頃には鍵盤に触れ、音感もバッチリ。もちろんピアノも弾けた

――ご家族皆さんが音楽をされていらして、自然と楽器を手にされて。やはり小学生時代も音楽を演奏しているほうが好きでしたか?

いえいえ、練習は嫌いなほうでした(笑)。小学生時代は野球クラブでしたし、父とはよく山に山菜やキノコを採りに行きました。僕は、ヴァイオリンと出会っていなかったら天然キノコ入りのラーメン屋さんをやっていたと思うんです。天然のキノコってすごくおいしいんですよ!毒入りだったら大変なんですけれどね。音楽って、練習はもちろん大切です。でも、僕自身のことを振り返ると、小さい頃、外で
うんと楽しく遊び、そこで感じてきた風や光、色や声の記憶が今のぼくの音楽に反映されていると思います。だから、北海道で自然に囲まれて育ったことに感謝しないといけないですね。

――NYへ行かれて活動されていた時期もありました。どんな目標がございましたか?

自分が何をやりたいか見極めたかった。仕事が忙しくなって、追われるように過ごすようになったのでNYではじっくりと自分を見つめ直すことができました。その結果、見えてきたのは表現したいことの後に、テクニックがついてくるということです。音色をどう出せるかよりも、どんなことを音色にしたいかなんですね。

子ども時代は土をいじれ、虫をいじれ。

――お話しを伺っていると、とっても素直に成長されて素晴らしいなぁと感じます。ご両親の教育方針というのは何かおありでしたか?

我が家はクリスチャンでして、日曜学校に通う敬虔な信仰をもつ家庭でした。父は賛美歌をたくさん作曲しており、ENERGYというアルバムで一曲披露しています。信条としては、「いつも喜んでいなさい」ということかな。不満とか不平とか言うのは簡単ですが、現状に感謝することって案外難しい。でも、そういう気持ちを持つことの大切さを両親には教わりました。

22歳頃の一枚。ヴァイオリンで天才さを発揮しつつ、やんちゃな一面がうかがえる

――信仰が家の基本にあると生きていく姿勢が違うのかもしれませんね。真部さんはまだ独身でいらっしゃいますが、子どもたちに何かメッセージをいただけますか。

曲がってほしくない。常に相手の立場で物事を考える人になってほしいです。聖書の影響もあるかもしれませんが、人のために何かやってあげることって大切です。将来どんな仕事を目指すにしても、机の上で勉強するだけでなくて、土をいじったり、虫をいじったりすることで、心が育っていくものだと思います。家に閉じこもってゲームばかりでなく、遊ぶときは多少の危険をおこしながらでも外で遊んでほしいです。

――夏休みになると、虫に目の色変える子がたくさんいそうですね。そういう子どもがこれから減らないように祈っています。では、今後取り組みたいテーマや活動などは?

色々ありすぎです(笑)。ジャズの即興は、もっとどっぷり使って、アメリカのピアニスト、ブラッド・メルドーのように、自由に即興できるようになりたいですね。何年もかかりそうですが(笑)音楽家は自分に満足する日はきません。音楽には一生貪欲でありたいです。

――真部さんの音楽を聞くと、いい言葉をもらったように心のエンジンを刺激される気がします。

まだまだヴァイオリンで、音楽で、できることがたくさんあると思います。これからもっと色んな経験をして、自分の中にある五感を刺激して、それを音楽に反映させていきたいです。

編集後記

――ありがとうございました。音楽を愛するファミリーでお育ちになって、自分の好きなことにまっすぐに、ヴァイオリンを大切にされてきた真部さん。美しいクラシックで心溶かされる一方で、とってもユニークなパンクロックみたいな音楽も演奏されます。まだまだ可能性をたくさん秘めた真部さんの奏でる音色。これからがますます楽しみなヴァイオリニストです。

取材・文/マザール あべみちこ