とあるきっかけでアルベルトと友達になった。20代後半の頃のことだった。アルベルトは中部地方にある大手電子機器メーカーの技術者として働いていたインドネシア人。ちょっと小柄で、澄み切った瞳をしたイケメンくんで、私より3つくらい年下だった。
初めてアルベルトと会ったのは、新宿紀伊国屋前。携帯電話なんてなかった頃の待ち合わせとしてメジャーな場所。友人と落ち合った時に友達の友達として紹介されたのが始まりだった。日本に来て数年しかたっていないというのに、驚くほど日本語が達者だった。といって流暢というわけではなくて、一所懸命日本のことばを学んで、日本の人たちと仲良くなりたい。そんな気持ちが伝わってくるような、丁寧でやさしいカタコトの日本語だった。
伊勢丹近くの喫茶店に入って、たくさん話をした。うまく通じないところは、ノートに絵を書いたりして会話した。(彼も私もあまり英語が得意じゃなかったのだ)
私の方は母国語ばかりで話しているのに、彼は日本語で懸命に言いたいことを伝えようとしてくれる。自分も挨拶くらいでもいいから少しでもインドネシアの言葉を知りたいと思ってお願いすると、アルベルトはうれしそうな顔をして、インドネシアのこどもたちが語る、まるで歌のように美しいことばを教えてくれた。
「スティンギティンギ、ツパイ……」
くるくる回るような言葉の音が、ツパイの動きにも似て、軽快で美しいことばだった。
ツパイというのは南アジアに生息するリスのような小動物で、哺乳類の原形をよく残している生き物だと言われる。そのツパイが、すばしっこく動き回る様を音韻を踏んだ詩のような言葉で教えてくれたのだが、そこから先が思い出せない。昔のノートを引っくり返して探せば、必ずどこかにメモしているのだが、スティンギティンギの意味ですら、何なにするやいなや、だったかどうか不明瞭、なのだ。
でも、ジャワ島に暮らすアルベルトが、スマトラ島のほとんど無人の入江や、海岸に面した林の風景を愛していたことは、その場所の話をするときの夢見るような彼の表情からも伝わってきた。時折訪れたというビーチではツパイの姿を見ることもあったと言っていた。大好きな場所の記憶とも一緒になった、そんな言葉を最初のインドネシア語として教えてくれたのがとてもうれしかった。彼の東京出張に合わせて、それからも何度か会った。その都度少しずつ上達していく日本語で、アルベルトはインドネシアのことを話してくれた。
その後アルベルトはインドネシアに帰国することになる。数年後、ふたたび来日したと聞いたが、またすぐに帰国したとか、いやまだ日本にいるという噂とか、そのまま音信不通になってしまった。
そして2004年、スマトラ島沖地震が発生した。何十万人もの犠牲者が出る大惨事となった。しかし、私にはアルベルトの消息を尋ねる手段がなかった。ジャワ島にある首都に在住しているアルベルトの無事をだた信じるしかなかった。
本気になって探そうと思えば探せないことはなかったのかもしれないが、手元にあるアルベルトに関する情報は名前とかつて働いていた会社名だけだった。彼が所属していた事業部はすでに閉鎖されていた。私は彼の消息を追わなかった。
悔恨はある。でもアルベルトの消息を確認しなかったのは事実だ。
2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
2016年3月11日、インドネシア・アチェ州で東日本大震災の追悼式典が行われたと、共同通信が伝えた。
アチェでも追悼式=津波被災地、経験共有-インドネシア
【ジャカルタ時事】死者・行方不明者約23万人を出した2004年のスマトラ沖地震・インド洋大津波の最大被災地、インドネシア・アチェ州でも追悼式典が開かれ、現地の小中高生ら約200人が参列した。
日本に派遣されたアチェの技術研修生らがつくった「インドネシア日本友好フォーラム」が主催。被害を後世に伝える「ツナミ・ミュージアム」が会場に選ばれ、参加者は犠牲者をしのび黙とうしたほか、復興支援のチャリティーソング「花は咲く」などを日本語で合唱した。
主催者で日本語教師のラフマヤンティさんは「過去の経験から、われわれには日本人の気持ちが分かる。諦めなければ道はきっと開ける」と日本の被災者に呼び掛けた。(2016/03/11-18:18)
「われわれには日本人の気持ちが分かる。諦めなければ道はきっと開ける」という主催者の言葉に、アルベルトの微笑みに満ちた瞳を思い出す。そして、「スティンギティンギ…」の詩が頭の回りをまるで土星の輪のように廻りはじめているのを感じる。
ずいぶん耄碌の進んできた自分ではあるが、たぶんそのうち詩の続きは思い出すだせるような気がしてきた。そしてご縁さえあれば、いつかきっとどこかでアルベルトに再会に日も来るだろうと確信した3月11日――
忘れる/忘れない
分かる/分からない
忘れていた自分が情けない/でも忘れることはできない