【遺構と記憶】気仙沼向洋高校に刻まれた津波の記憶

気仙沼向洋高校は20世紀最初の年、1901年に開校した宮城県立の高等学校。水産教育を中心に、地元の産業を支える人材を輩出してきた伝統校だ。

校舎は気仙沼市南部、リアス式海岸や潮吹岩で知られる岩井崎やお伊勢浜海水浴場の近くにあった。海岸からは500メートルも離れていない。

岩井橋水門の向こうに気仙沼向洋高校を望む

2011年3月11日は、平成22年度の最後の授業日だった。授業はお昼には終了し、地震発生時には1、2年生約220人のうち170人ほどが学校に残り、課外授業やクラス行事、部活動などを行っていたという。

津波は校舎の4階まで達した。4階の壁まで破壊されている

気仙沼向洋高校には2パターンの避難ルートがあった。火災の時には校庭で点呼を行った上で1キロ離れた地福寺に避難。地震の際には点呼後校舎4階に避難。しかし2011年3月時点では、生徒たちの校舎の大改修が行われていて、生徒の多くは校庭につくられた仮設のプレハブ校舎にいた。しかも当日は、受験の採点などで校舎の一部が立ち入り禁止となっていた。大地震の後、女子生徒の中には腰を抜かしてしまって4階までの避難が困難な状況もあった。生徒たちは1キロ離れた地福寺に避難した。その自然な初動が結果的に「吉」へとつながった。

校舎内には約20人の教職員がいた。教師たちは生徒らが校舎内にいないのを確認した上で、津波への対応をとる。地震で停電していたがカーナビのワンセグで「6メートルの津波」という気象庁発表の第一報はつかんでいた。

震災後、気仙沼向洋高校がまとめた資料「その時,現場はどう動いたか」には驚きの記載がある。

東日本大震災の約1年前、チリで発生した地震の影響で気仙沼地方に津波による避難勧告が出ており、その時津波を警戒して重要書類を3階に運んだ経緯もあった。(結局、大きな津波は来なかった。)

引用元:「その時,現場はどう動いたか」3.11震災直後の動向 | 宮城県気仙沼向洋高校

結果的に肩透かしに終わった津波警報が、翌年の東日本大震災の津波被害を拡大したのではないかと指摘されることもある2010年2月28日のチリ地震津波(地震発生は2月27日)への対応が、気仙沼向洋高校では経験として蓄積されていて避難行動をとる上で効果を発揮したということらしい。

教職員たちは、金庫に保管されていた指導要録や入試データの重要書類、通帳、公印、さらにはサーバ関連の機器や石油ストーブ、灯油などを校舎3階まで担ぎ上げる。津波警報が10メートル以上となった後には、それらをさらに4階へ、そしてふだん鍵が掛かっている屋上への扉もマスターキーで解錠し、難を逃れることができたという。

校舎の工事関係者26名も合流し校舎上階へ避難した。しかし、津波は校舎の4階にまで達し、さらに鉄筋造の冷凍倉庫が流されてきて校舎4階のベランダに激突する。避難した人たちも「覚悟」を固めたと気仙沼向洋高校の資料には記されている。

地福寺に避難した生徒たち、そして避難を引率した教職員たちは、1960年のチリ地震津波で被害がなかったという地福寺にいても危険ではないかと考え、さらにJRの線路や国道方面へと2次避難を行った(最終的にはさらに上の階上中学校まで避難)。大きな余震が続く中、腰を抜かした状態の生徒たちをおぶったり、肩を貸したりしての避難だったという。

いくつもの偶然が生死を分けた。しかし、生き延びた背景には津波に対する危機意識の高さがあったことは間違いないだろう。

記された次の一文が現実を冷徹に伝える。

途中多くの地域住民に会い、避難するよう促したが、瓦礫の片付けなどをして避難する様子はなかった。その後襲った津波によって、地福寺を含むその地域は多大な被害に遭った

引用元:「その時,現場はどう動いたか」3.11震災直後の動向 | 宮城県気仙沼向洋高校

気仙沼向洋高校の周辺では大規模なかさ上げ工事が進められている。校舎は震災遺構として保存が決まっているという。

参考までに—— 読売新聞のカメラマンManabu Kato氏がアップした5年前の風景。

5 years after the Great East Japan Earthquake / 2011 tsunami left car on 3rd floor - The Japan News