御蔵山(おぐらやま)は年貢米を貯蔵する蔵のあった場所だという。岩手県山田町の港から西へ200メートルほどの場所にある小高い丘だ。この地に年貢米を貯蔵する蔵があったことは江戸時代初期の古い記録にも残されているそうだ。
丘に上ると正面に山田湾が一望できる。もちろんオランダ島も、島の周囲にびっしり並んだカキやホタテ、ホヤやワカメなどの養殖イカダも見渡せる。
足元に見えるのは山田町に新しくつくられている商店街。その先の国道の向こう、海と陸の境目に建設が進められているのは山田町の防潮堤。鋼鉄製の杭にコンクリート製の大きなブロックを差し込んで積み重ねて建造中だ。
堤防建設とかさ上げ工事と解体工事と造成工事、さらに新築工事が同時に進められている山田町の様子を、御蔵山の丘の上からぐるっとパノラマチックに撮影してみた。
御蔵山の丘の南側でには大規模なかさ上げ工事や新築工事が進められている。何基もの大きな杭打ち機が槌音を響かせる。遠くのかさ上げ地にはすでに復興公営住宅らしき大きな鉄筋コンクリート住宅も建設中。上のgoogle mapにまだ写っていないところを見ると、ここ数カ月の間に急ピッチで建設が進んだものらしい。
なぜなら去年の秋、御蔵山の南西のかさ上げ造成地に上った時には、まだその南のかさ上げ地に見えたのは大きなクレーンばかりで、まだ建物は見えなかったからだ。
南西方向の杭打ち機の向こうに見える白い建物は、旧・県立山田病院。近くから見ると如何にもな感じの廃病院だが、震災以前に高台に移転していたらしい。震災後、多くの施設が被害を受けた山田町では、被災した医師の三兄弟がこの廃院を利用して診療所を開設したり、地元のスーパーが廃院内で開店したり、復興へ歩みが刻まれた場所でもあったという。ちなみにそのスーパー「びはん」さんは、震災の3日目からテントで食品などの販売を行ったお店なのだとか。現在は御蔵山のすぐ北側に新店舗で営業中だ。
正面の白い建物は山田町役場。以前、かさ上げ造成地から役場を見た時には、「このままかさ上げが進めば、被害を逃れた街並みも埋め立てられてしまう。町役場も1階部分までは埋まってしまうかも」などと思った。それほどかさ上げ工事は大規模だった。
山田町の復興計画を見てみると、被災した町には盛土と切土で新たな土地を造成し、危険地域からの防災集団移転や災害公営住宅などを中心とした新しいまちづくりが進められることになっている。被災地域は町が全面買収するものの、陸前高田のように旧市街地をほぼ全面的にかさ上げするのではなく、盛土地域と切土地域、そして被害を免れた地域を結んで市街地が形成されるようだ。ちょっと古い資料だが、「復興計画のあらまし」から一部を引用する。
山田町は水産の町。魚市場や水産加工場などは海辺から離れて立地することが難しい。そのため、海岸沿いでは防潮堤を大型化し、津波避難タワーや津波避難ビルを建設し、災害に備える。住宅地や店舗、行政機関などは高台に再建するものの、海辺近くにも一部商店は再建してもらう。
ちょうど今立っている御蔵山のあたりが、海辺の町と高台につくられる新たな町の境目に当たるというわけ、つまりは町の最前線。
そしてこの場所には、かつてJR陸中山田駅の大時計だった被災時計と、震災から1年経った2012年の3月11日に建立された鎮魂と希望の鐘も設置されている。あの日の出来事と鎮魂と、未来への動きが交差する場所でもある。
そして御蔵山にはこんな歴史も。震災当時、この場所には町立図書館があった。施設の被害は比較的軽微だったが、蔵書や資料のほとんどが被災した。震災後の荷物の集積場として使われたそうだが、その後、御蔵山には無料の公衆浴場「御蔵の湯」が建設される。山田町の雇用対策など7億9000万円の事業を受託した末に破綻した北海道のNPO法人「大雪りばぁねっと。」がつくった施設だった。御蔵の湯は約1年で休館。しばらくは看板が残っていたらしいが、今は痕跡も見当たらなかった。
江戸時代に町の中枢部だった御蔵山は、町の歴史の汚点といえそうな出来事にも、その名を用いられてしまった。それでも御蔵山は山田町のヘソのような場所。これからも町の変化をずっと見届けていく場所であり続けることだろう。
山田町で知り合った人に「今だからこそ見ておきたい場所」を尋ねてみた。答えは「ごめんね、今はどこに行っても工事現場ばかりだから。でも、もう少しすると新しい町ができていくと思うから楽しみにしてくださいね」
旅行者の目にはなかなか見えては来ないが、地元の人たちは将来の山田町の姿をしっかり思い描いているらしい。山田町がどんな姿で復活していくのか、これからも町を訪れるたびに御蔵山からの景色を眺めていこうと思う。