南三陸の美しい海に面したホテル観洋。エントランスから続く長いロビーを歩いていった先に、何脚かの椅子が並べられている。目の前には紺碧の志津川湾。
漁場が広がる豊かな海の向こうには、赤茶色の土が山のように盛り上げられた志津川の町。この椅子は、復興が進むふるさと志津川を遠望するための特等席として、この場所に並べられたものなのだと思っていた。
しかし、ホテル観洋の語り部バスツアーに参加して、もうひとつ別の意味があることを知った。窓からの町の遠景の中に一棟の白い建物が見える。この白い建物は復興にかける強い意志の象徴だった。
志津川エリアに入った語り部バスが最初に向かうのが高野会館。ホテルから遠くに望めた白い建物だ。高野会館の周辺にはもはやこの建物があるばかりで、まわりはかさ上げの土の山が脈々と連なっている。しかしここはかつてこの町の中心部だった。バスが入っていく道は国道45号線。東浜街道と呼ばれる海沿いの幹線道路(現在、国道45号線は西に迂回している)で、高野会館の向かいには公立志津川病院もあった。
高野会館はホテル観洋のグループ施設。結婚式場やさまざまな催しの会場として地元に親しまれてきた施設だった。震災の当日は地元の高齢者による「芸能発表会」が行われていて、館内には327人の人がいたという。
経験したことのないほどの激しい地震。そしてその後には海の水が沖の方まで引いていった。芸能発表会の参加者には大きな動揺が走り、すぐにでも家に帰りたいという人が続出したという。しかし高野会館は海から200~300メートルしか離れていない平地にある。いま地震で町や道路がどんな状態なのか分からない中、外に避難するのは危険だと考えた支配人と従業員たちは、玄関前で手を握り合って仁王立ちし、人間のバリケードをつくった。「いま外に出ると危険だ」「死にたくなければ建物に残ってほしい」と何度も訴え、お年寄りたちを4階に誘導。しかし、志津川の町に襲いかかった津波は巨大で、4階のテラスも波をかぶるようになり、ぎりぎりのところで全員を屋上に上げたのだという。
スタッフを含め327人の命は守られた。しかし、屋上に迫るほどの津波の中を、町の多くの人達が流されていったという。向かいの病院からベッドごと流されて、声を振り絞って助けを求める人もいたが、どうにもできなかったという。
高野会館には命を守った施設としての誇りと、町の多くの人たちが命を奪われていったのを目の当たりにした悔恨とがある。
ホテル観洋は震災後、地元の人たちの避難場所になった。ホテルに行けば大丈夫だろうと地元の人たちが数多く集まった。長期にわたる避難生活の中、ロビーのあるフロアには子どもたちのための図書室も設けられた。この強化ダンボールでつくられた書棚が並ぶ図書室は今も使われている。
ホテルのロビーには震災を記録した3D映像のスクリーンや、震災後の日々を記録した写真展、語り部ツアーに参加した小学生たちからの手紙など、被災から立ち上がろうとする人々の歴史がさまざまな形で展示されている。
そしてその奥、志津川の町を遠望できる場所にこの椅子がある。
高野会館は震災遺構として残されることになった。判断したのはホテル観洋のグループ経営者だ。目に見えるものを残すことで震災を伝えたい。そんな強い思いからの決断だったという。
ホテル観洋のロビー北側にに見える志津川の町の景色。窓の前に並べられた椅子には、被災から立ち上がる決意と、震災を伝える強い意志が込められている。