戦争への道を進んだ原動力のひとつは間違いなく国民

その日、日本中の多くの場所で「バンザイ」が叫ばれたという。

1941年12月8日午前7時、日本では

1941(昭和16)年12月8日朝、ラジオから流されていたのは日本放送協会による臨時ニュース。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という言葉はよく知られている。

太平洋戦争開戦ラジオ放送

証言によると、この放送に「ついに始まったか」と緊張したり、先行きに不安を覚えた人もいたが、いきなりバンザイを唱える人たちの姿も少なくなかったという。

最初のニュースは戦争が始まったことを伝えるだけだったが、同日夜の放送では、「戦艦2隻轟沈、戦艦4隻大破,大型巡洋艦約4隻大破」といった真珠湾攻撃での戦果も伝えられるようになる。

国民は勝ち戦に熱狂する。とてつもなく巨大な敵と考えていたアメリカと戦端を開いたことに一時は緊張した人たちも、このような大きな戦果に接してバンザイを叫ばずにいられなかっただろうことは想像に難くない。

真珠湾攻撃で戦死した人々は英雄として新聞に取り上げられた。とくに特殊な小型潜航艇で真珠湾内に突入して戦死した9人は「九軍神」とされた。

真珠湾攻撃でアメリカの世論が急展開

真珠湾での戦死者が英雄視されたのはアメリカでも同じだった。いまも真珠湾内には沈没した戦艦アリゾナが記念の場所とされている。そこは「リメンバー・パールハーバー」の記憶を未来に繋ぐ場所でもある。

ルーズベルト大統領はアメリカ時間の翌8日、議会で演説し、日本への宣戦布告を要求した。演説は「真珠湾攻撃を国民に告げる」と題され、そこには「屈辱の日(a date which will live in infamy)」という過激な表現が使われた。日本大使館員が国務省に文書を届けたのは攻撃が始まった1時間後だったと主張することで、日本は真珠湾攻撃を実施するために偽りの交渉を続けた卑劣で許すべからざる存在だと強調した。演説の動画と本文を以下に引用する。

President Franklin D. Roosevelt - Declaration of War Address - "A Day Which Will Live in Infamy"

空気は180度変わった。卑劣な日本に報復すべしという世論が巻き起こった。

日米が開戦する2年前から、ヨーロッパではすでにナチス・ドイツによる戦闘が繰り広げられていた。日本も中国での泥沼の戦いを続けていた。ヨーロッパでも太平洋地域でも緊張は高まっていたものの、アメリカは直接の戦闘に手を出さずにいた。ところが、卑怯な不意討ちと評された真珠湾攻撃によって、アメリカ議会は翌日には対日宣戦布告を決議(アメリカでは宣戦布告の権限を持っているのは大統領ではなく議会だった)。

一方、ドイツやイタリアも日本の参戦を受けて11日にはアメリカに宣戦を布告。世界大戦が本格化する契機となったのが、12月8日の日米開戦だった。

ヒトラーが日米開戦について、「三千年無敗の国が味方についたのだからドイツはこの戦争に勝利する」と述べたという話もあるらしい。これに対して英国首相チャーチルが「これで我々の勝利が確定した」と語ったという話は間違いないだろう。イギリスはフランスの敗戦後、西ヨーロッパではただ一国でナチスドイツに対峙してのだから。

そして大国アメリカを動かし、ひいては戦争の結末までも左右することになったのは、「リメンバー・パールハーバー」という言葉と、米国民の感情だった。

政府を突き動かす大群衆の恐怖

国力に差がありすぎる大国アメリカに対して戦争を仕掛けたことについて「無謀な戦いだった」という意見を聞くことがよくある。とくに、74年前の真珠湾攻撃で米英などと戦端を開いた12月8日前後には、そんな表現をよく見かけた。

無謀でなければ戦争をしてもいいのかという議論は次に譲るとして、巨大なアメリカと戦争をすることへの懸念は当時から根強くあったのは事実だ。それは国民にも、軍部の中にさえでも存在した。しかし、それでも日本という国は戦争に向けて突き進み、結果として多くの国民を、そして近隣諸国の人々にたいへんな犠牲と苦しみを強いることになる。それはなぜか。

遠因は日露戦争や日清戦争の頃まで遡って求めることができる。

日露戦争終了後に発生した日比谷焼打事件は、戒厳令が敷かれるほどの大騒擾となったが、事件を起こしたのは後の二・二六事件の時のように軍人ではなく、一般の民衆だった。日露戦争では勝利を収めたはずなのに、賠償金をロシアから得られなかったことに憤慨した一般国民がクーデーターに匹敵するような大事件を引き起こしたのだった。

賠償金が得られなかったことを理由に暴動が発生した背景には重たい税負担があった。

日本は日清戦争で清国軍を破り、下関条約で賠償金を含めて優位な形で講和を結ぶことができた。しかしその直後、日清戦争の結果、清から日本に割譲された遼東半島の清への返還をロシア、フランス、ドイツが求めてきた。三国干渉だ。清との戦いで一杯一杯であった上、ヨーロッパの大国と戦争するだけの国力がなかった日本は、大国からの要求を呑んで遼東半島を返還するほかなかった。返還した遼東半島にはすかさずロシアが利権の網をかけていく。

臥薪嘗胆。ゴツゴツした薪の上に寝て、苦い胆をなめることで屈辱を忘れないという意味の言葉で、かつては小学校の教科書にも登場したが、日清戦争から日露戦争までの期間に生じた国民にとっての最大の変化は重税だった。ロシアなど列強に対峙できるだけの軍備を整えるため、国民は重い税負担に苦しんだ。

日露戦争で賠償金を得られなかったことは、10年続いた重税から解放されることはないということを意味していた。しかも日露戦争の戦費は日清戦争の時よりはるかに膨大で、外国からも資金調達していたため、税負担が重たい状況はさらに続くことが明らかだった。だからこそ、戒厳が発布されるほどの大暴動が起きたのだといわれている。

ちなみに、驚くべきことだが日露戦争の戦費を調達するために発行された外債は、日中戦争の頃になっても完済されていなかったという。

大正時代、シベリア出兵にも関連して全国各地で発生した米騒動も、住民を抑えるために各地で軍隊が出動する大きな暴動になった。

昭和になると、ロンドン軍縮会議(1930年)では、巡洋艦などの軍艦の保有割合を対米英7割の方針で臨んだものの、米国の強い反対に会って6.97割で妥結しようとしたことに対して「弱腰外交」と批判する声が国民の間に広がり、4月3日には芝公園で条約反対の国民大会を開催された。右翼活動家の主導という分析もあるが、この動きに乗じて政友会は当時の濱口内閣に「統帥権干犯問題」で揺さぶりをかける。

ところが、その後新聞の論調が条約容認に転じると、6月18日にはロンドン条約の調印を終えて帰国した若槻礼次郎全権代表団の帰国を歓迎する大群衆が、多数ののぼり旗まで立てて東京駅前を埋め尽くした。

不満があれば政府をも揺るがすような国民の「見えない声」。どう動くか予測ができにくい群衆というものを、政府は恐怖するようになる。(革命に対する警戒と忌避する感情は関東大震災の頃から政府内に根強かった)

無謀な戦争が無謀に見えなくなる

昭和初期の時代の海軍軍人だったら、と想像してみてほしい。近所の小さなこどもからこう尋ねられたらどう答えるか。

「おじちゃん、ニッポンの軍艦は強いんだよね。どこの国の軍艦にも負けないよね」

負けるかもしれないなんて答えられないだろう。当時世界には最大級の16インチ砲を搭載した戦艦が9隻(長門・陸奥=日本、ネルソン・ロドネイ=英国、コロラド・メリーランド・ウエストバージニア=米国)あって「ビッグセブン」と呼ばれていた。戦艦長門と陸奥は当時の少年たちにとって憧れの的でもあり、やはり近所の小学生くらいのこどもから、こんな質問を投げかけられるかもしれない。

「おじさん、長門と陸奥はアメリカの3隻と戦って勝てますか? もしもイギリスとアメリカが手を組んで挑んできても勝てますか?」

客観的かつ冷徹に考えれば、戦闘ではお互いに損害を出し合うことになる。いかに相手にダメージを与えて、こちらの被害を軽減するかがキモだ。ビッグセブンと呼ばれた7隻はいずれも当時の最先端だから、自らは無傷で相手だけを倒すことなどありえない。海軍軍人であればそんなことは知っていて当たり前だろうが、だからといってそんな話をできるはずがない。

「帝国軍人には大和魂がある。だからきっと勝ちます」といった返答が当たり前だったことだろう。このやり取りを繰り返すうちに、妄想が国民だけでなく軍人までをも支配することになる。

真珠湾攻撃では、軍港に対する再度の攻撃や、ハワイ近海にあると考えられていたアメリカの空母を探し出して攻撃すべしという意見も多かった。しかし、司令官は12月8日(日本時間)早朝の2度の空襲を終えたところで、ハワイから離れる。

真珠湾の基地が迎撃体制を整えたところへ再攻撃を仕掛ければ、日本側の被害が拡大する可能性が十分ある。空母を探すとなれば、逆に日本の機動部隊が攻撃を受ける恐れもある。司令官はそれを避けた。真珠湾攻撃で自軍の被害を少なく抑えたことで十分だと判断した。弱腰という意見もあるが、一方的勝利が稀有であることを理解した上での理知的な判断と見ることもできるかもしれない。

しかし、この司令官は戦争末期、南洋の島の守備隊を率いて玉砕(全滅)戦を指揮し、彼自身も敵陣に突入したといわれている。

開戦時には敵の反攻を恐れる理性を持っていた指揮官たちの多くが、戦争末期には生還の見込みのない特攻を指揮している。

そこに至る道を、単に敗色が濃厚になり続ける状況や、軍内部の狂信的な性質だけで説明するには無理がある。

軍部の台頭や、軍組織内で下克上と呼ばれた統制の乱れ、政財界の腐敗など多くの要素があって日本は太平洋戦争に向かって進んでいった。その片方の車輪が軍部と政府にあったことに異論はないだろう。しかしもう片方の車輪が、見えない国民世論にあったこともまた、おそらく間違いない。

国が戦争に向かって時、国民がどのような作用で、どのように戦争に関わっていったのか、これからも考えていきたい。