「噴火だが噴火の表現適切でない」と言われて何のことか分かるだろうか。7月21日付の朝日新聞デジタルに掲載された箱根火山に関する記事のタイトルだ。
意味不明なタイトルなんか付けては新聞社の恥というべきところだが、ワケワカランのはネタ元である気象庁の発表自体が「まやかし」だったから、ということらしい。驚いたことに、気象庁はこの日、箱根の大涌谷で噴火現象を確認したものの、住民の不安をあおりかねないという理由から、噴火という表現は適切ではないと発表した。
箱根山で火山灰確認 「噴火だが噴火の表現適切でない」
朝日新聞デジタル 鈴木逸弘 2015年7月21日20時27分
気象庁は21日、活発な火山活動が続いている箱根山(神奈川県)の大涌谷(おおわくだに)で、6月に新たに確認された火口から、噴煙にわずかに火山灰が混じっている現象を確認したと発表した。火山灰の噴出が短時間だったことから、同庁は「現象は噴火だが、住民の不安をあおるなどの防災上の影響もあるので、噴火との表現は適切でない」としている。
箱根山での火山灰の確認は、ごく小規模な噴火があった7月1日以来。大涌谷の火口で21日正午ごろ、火山灰を含んだ噴煙を10秒ほど観測。高さ約10メートルの白色噴煙が一時的に灰色になり、50メートルほどの高さになった。噴火に伴う振動は確認されず、火山性地震も同時間帯に観測されなかった。
気象庁では、火口から火山灰が放出される現象を噴火とする一方、噴火として記録を残すのは「火口から噴出物が100~300メートル飛んだ場合」と説明。6月30日と今月1日のごく小規模な噴火では、火口から100メートル以上離れた場所で降灰を確認したことを根拠とした。ただ、21日は火口から100メートルの範囲で降灰調査は実施しておらず、実際の火山灰が飛んだ範囲は把握できていないという。
同庁火山課の小久保一哉・火山活動評価解析官は、今回の噴出現象について、「理科研究の小学生に、噴火かと問われれば噴火だと答える。ただ、気象庁では噴火と記録はしないと説明する」と話した。(鈴木逸弘)
気象庁が「科学」を捨て、「風評」防止を優先したという視点からでも、大いに批判すべきところだが、この問題を別の見地から考えたい。現在、世の中に蔓延している「まやかし」の横行という共通項で括ってみようと思う。
朝日の記事の末尾のエピソードが象徴的だが、典型的な二枚舌。理科を研究する小学生から質問されたら「噴火だ」と答えるが、気象庁としては「噴火はない」とする。あるけど記録には残さない。記録に残さないけど実はある。だけどない。
酷似していないだろうか。
海外で兵站活動を行うことで自衛隊員のリスクが増えることは自明だが、リスクが増大することはない。自衛隊員はこれまでにもたくさん殉職しているなどとズレた話を強弁する。となりの家の火は消せないが、はなれの火が自分ちに迫ってきたら消せるようにするのが集団的自衛権。個別自衛権ではないの? と指摘されても「生肉」とあだ名された煙の模型をいじくって、「こう危険が近づいてきますとね」なんて言うばかりで質問には答えない。
そんな、どこかの最高責任者の話法をアタマのいい気象庁のエリートが学習して、あるけどない式のまやかし言葉で批判逃れをしようとしているようにも見える。
まだある。東京電力福島第一原子力発電所で行われている地下水などの汚染度の測定結果の発表も、同じ文法によるものだ。
今回の分析結果については、7月16日採取した水の分析結果(セシウム134、セシウム137、全ベータ値)が前日の分析結果よりも上昇しているが、強い降雨の影響により一時的に上昇したものであると判断している。
このところ、測定値が上昇すれば「降雨の影響」と理由づけする。しかも、この先濃度が確実に下がる保証などありもしないのに「一時的」という。仮に一時的だとしても、濃度が上昇した汚染水が海へ流出したことは事実であるはずなのに、そのことには触れない。「雨のせいで一時的に高くなってるだけですから」というのは、汚染水を外の環境に出さないという原発事故収束にあたっての大原則を完全に逸脱するものだ。(しかも最近では、濃度上昇の恐れがある降雨時には最初から検査しないという対応までとっている!)
事故処理に当たる東京電力が最優先しなければならないのは、これ以上の環境汚染を絶対に防ぐことだ。政治家が最も大切にしなければならないルールは憲法だ。そして科学者集団である気象庁職員のバックボーンは科学的姿勢にほかならない。
一番大切なものを蔑ろにして、口先だけで空言を吐く。口先から飛び出す言葉もみな同じ。「大丈夫、安全ですから」。
自らのプリンシプルすら大切にできない人間に安全ですといわれて安心できるような人はいない。かえって不安になるばかりだ。その辺のところが分かっていないところも三者同様だ。もうこうなると恐ろしくなる。
まやかし言葉の空語妄言は東京電力や気象庁ばかりでなく、もっと幅広く蔓延しているかもしれない。だって、国の最高責任者がまやかしを言ってそれで通るのであれば、たとえ嘘でもデタラメでも自分に都合のいいように相手を丸め込んだり煙にまいて、その場さえ切り抜ければオッケーということになりかねない。
これは大変な危機だ。
このままでは、言葉が意味をなさなくなる。説明がまやかしであるならば、説明することの価値は、説明したという外形的事実以外なくなってしまう。説明の中身である言葉は空中分解してしまう。言葉が意味をなさないとは言葉が通じなくなるということだ。私たちはここでバベルの塔の物語を思い出さずにはいられない。
旧約聖書の創成記に登場するバベルの塔の物語は、天に届くほどの塔をつくろうとした人間の傲慢を戒めるため、神様は人々の言葉を乱して、言葉が通じないようにした。そのため塔が完成することはなかったという話だ。
いよいよ今の世の人々は、バベルの塔の物語を再現しようとしているのではないか。というのも、まやかしの言葉の横行ばかりか、気象庁や東電の言動には、神を恐れぬ思想の萌芽まで見受けられるからだ。
そもそも大規模噴火の可能性はほとんどないと踏んでいるからこそ、噴火だけど噴火じゃないなどと言えるわけだ。放射能の上昇は一時的なんて言うのも、未来の予知、つまり人知を超えた所業にほかならぬ。
これで万が一、不幸にして大きな噴火、あるいは放射性物質の大量流出などが起きてしまった日には、もう言い逃れの言葉はない。すでに「想定外」という言葉は4年前に禁句として封印されている。自然を前にして人間の想定など意味をなさないことを気象庁の人たちは学ばなかったということなのだ。シビアアクシデントを身をもって経験したのに東京電力は三歩歩いて忘れてしまったような状態なのだ。
とはいえ呆れているだけでは仕方がない。まやかしを跳ね返す力を持たなければ。
当事者は私たち自身。安全は自分たちで守ろう!