7月は杉原千畝を偲ぶ月

「人道主義」という言葉で思考停止してしまっては意味がない。「偉人」という言葉で自分とは関係ない遠い存在だと思うのは、彼の行為を貶めることかもしれない。そんなことを思います。

杉原領事代理による手書きのビザ

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杉原千畝は「命のビザ」の発給者として有名です。

ドイツによるソ連侵攻がささやかれていた1940年。当時ソ連に占領されていたリトアニアでは、各国の在リトアニア領事館・大使館が閉鎖されていっていた。このままドイツとソ連の戦争が始まり、リトアニアがドイツに支配されることになってしまったら、ドイツのユダヤ人迫害が自分たちの身に及ぶのではと恐れたリトアニア在住のユダヤ人たちは、海外への脱出を切望していた。しかし前述のとおり多くの国の領事館・大使館は閉鎖されていた。そこで、リトアニアにあってまだ業務を続けていた日本領事館にビザを求める人々が殺到した。その時、リトアニアのカウナス領事館で領事代理を務めていたのが杉原千畝だった。

杉原領事代理は独断で、約6,000人のユダヤ人に日本を通過するビザを発給し命を救ったとされる。日独伊三国同盟が締結される直前に行われたその行為は、東洋のシンドラーとも呼ばれ賞賛されている。

だから、彼は立派な人。そんな立派な人が戦争中の日本にもいたんだ、という文脈で語られることもありますが、それは少し見当外れだと思うのです。

彼がユダヤ人へのビザ発給を始めるよりも前に、日本の外務省(つまり彼が所属する組織の本省)は、ユダヤ人へのビザ発給を行わないように世界中の日本大使館や領事館に命令していました。また、彼が発給したビザを使って日本に入国するユダヤ人が急増するのを受けて、外務省からは彼の領事館に宛てて何度もビザ発給を止めるように求める訓令が電文で送られています。

想像してみてください。彼の行為は組織の命令に背くことだったのです。組織の命令に従うことは組織人として守らなければならない基本的なルールですから、彼の行為は明らかにルール違反。それも不可抗力ではなく故意によるルール違反です。

人道という言葉だけで彼を賞賛するのは、あまりにも皮相な見方ではないでしょうか。悪法もまた法なりと言ったソクラテスの言葉すら思い出されます。

彼はビザ発給を決心した時、多くの人々を救いたいという思いと、組織からの命令に背くこと、もっと言えば外交官として日本国の利益を最大限にすべく行動するという職責とを比較した上で、前者を選びとったのです。外交官として本国からの命令に従うことも、それもまたひとつの正義です。しかし、彼はそうしなかった。本省から譴責される中でもビザ発給を続けた彼は、間違いなく外交官としての将来を棒に振ることを理解していたでしょう。それどころか、リトアニアからドイツの大使館への異動も決まっていたことから、次の赴任先で自身や家族の身に何が起きるのかという不安もあったはずです。それでも彼はビザを発給し続けた。万年筆のペン先が折れれば、インク壺とペンで手書きのビザを書き続けた。1カ月にわたって腕がしびれて動かなくなってもなお、ビザを発給し続けた。ベルリンへ転任するための列車に乗ってからも書き続けた。いよいよ発車となって書けなくなったとき、ビザを発給することの出来なかった多くの人たちに「無事を祈います」と頭を下げた。

2004年、リトアニアの切手に描かれた杉原千畝

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二つの正義があった中で、現実に自分が所属している社会の正義、現世のルールではなく、もっと先験的、アプリオリな、法律やルールといったそれ以前の正義を優先したのが、杉原千畝という人物だったのです。

私たちは、たとえ命を救うためであっても、法を破ることができるでしょうか。自分や家族の将来を投げ出すことができるでしょうか。

法律やルール、しきたりといったものは、社会を成り立たせるために必要なものです。それらは多くの場合、正義として扱われます。でもその先にある、より本源的なものに気づき、たとえ不正義と非難されることが予想されようとも、自分の正義のために奉仕することができるか。杉原千畝の行動は、そんな厳しい選択を、私たちに示しているのです。

リトアニアでの命のビザの発給が始まったのは、7月9日とも7月18日とも言われます。日本政府の入国書類には、7月9日に発給されたビザを使って、ユダヤ系ドイツ人が日本を経由してマニラに渡った文書が残されています。そして戦後、ソ連の収容所から日本に帰国した後、彼は外務省を免官された後、二度と官職に就くことなく1986年7月31日に没しました。

命のビザの発給を始めた月であり、亡くなった月でもある7月。杉原千畝の行動の意味を自分に引き寄せて考えることができますように。

あなたは自分が所属する社会のルールを破ってでも、あなたの正義を行えますか?