沖縄戦の住民集団自決に「強制」はあったのか?

激しい地上戦が行われた沖縄では、多くの民間人が犠牲となりました。戦闘の中では集団自決という痛ましい出来事も繰り返されたそうです。敵軍に追い詰めらていく中で、兵士ではない住民が自殺する。集団自決について、日本軍からの命令や強制があったのかどうか――。沖縄戦から70年の今日まで、折々にこの問題は取り上げられ、激しい論戦が繰り広げられています。

「降伏を促すビラを手に降参する地元住民」

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基地問題の歴史を克明に調べた明田川融氏の労作「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」に記された、渡嘉敷島での集団自決に関する記事を引用して、多くの人々が自ら死を選んでいった理由や背景、状況を考えます。引用文の中には残酷な部分もあることを予めお断りします。(しかし、戦争を考える上で極めて重要な要素です)

 山城盛治さんは、米軍上陸を間近にして、山中、そして恩納川原(うながわら)を移動しているとき、「明日あたり、玉砕だ」という話を耳にした。それから、後に「玉砕場」と呼ばれることになる“ その場所 ”へと向かった。そこで繰り広げられた惨状の描写は迫真このうえない。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

 翌日の朝九時頃、“ 集合 ”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押し付けたら、ネジがバカになって、信管ががポロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で仕末(ママ)しよう、といった。

 女所帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、といって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

宮城遥拝とは皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝)することで、天皇への忠誠を示す行為として、小学校(国民学校)の子供たちから老人まで、全国民によってしばしば行われていました。

天皇陛下を戴く皇国の臣民として、赤誠を捧ぐことを確認しあうための儀礼だったのだと思われます。

 そうこうしているうちに、米軍から弾がボンボン射ちこまれてね。

 私は十四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前にアメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。

 行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持ってきたのかわからないですがね。

 それで(ゴボウ剣)で子どもは背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。

 そして、女の人はですね、上半身を裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげて、刺したのです。

 私は、年が若い子、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。

 私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話役ですよ。

 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊るすのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのですが、死んだと思って降ろしたら、まだ生きていて、もう一ぺん吊り下げたり、喉を刺して殺したり、死んだ人を並べたら、もう、こんなに長い列が出来ていた。

「玉砕場」では、女も男も、年よりも子供も、みんな殺し殺された。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

ゴボウ剣とは小銃の先に付ける銃剣のことで、尖ってはいても研がれていない剣です。こんな刃物で住民同士が殺し合ったということです。目的は「後顧の憂いを絶」って、お国のために見事に働くため。生死をかけた戦闘を行う上で、家族のことが気がかりになれば立派に働くことができないからということです。

郵便局長という地元の名士だった人物の回顧にも、家族を殺す話が出てきます。

 徳平秀雄さんは、当時、渡嘉敷郵便局長で、米軍上陸という事態に直面して村の有力者たちと今後の対応策を協議した一人であった。

 …村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片付けようではないかと、いっていました。

 防衛隊とは伝っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持ってきた手榴弾を、配り始めていました。

 思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決するときまると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、身体を洗っている者もいました。

 そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

集団自決の強要や、住民に対する玉砕命令はなかったとする証言です。

しかし、命令はなくても、手榴弾を配るということは、自決を促す行為にほかなりません。それを正規軍の兵士がではなく、沖縄の現地で集められた民間人による防衛隊が行ったという点に、著者の明田川融氏は注目しています。

「防衛隊」という、住民男子のなかから現地の駐屯舞台に動員・配属され、いわば軍と民を繋ぐ「中間層」が、強制された島民集団死において影響力を有する例は、阿嘉島といった慶良間の他の島でも見られるが、(中略)

 戦中、その防衛隊の一員であった大城良平さんは、まず、軍における上官の「命令」と「法」の絶対性を主張する。

 上官の命令は、そのいかんを問わず、天皇の命令も同じことですから、服従しなくてはなりません。沖縄戦についての本の中に、渡嘉敷で集団自決があったとか、虐殺があったとか、書かれていますが、それは間違いです。

 軍隊には、法というものがあります。それを犯すと罰しなくてはなりません。罰して殺す場合もありません。私は支那で四年も戦争して来ましたからよく知っています。

 敵に捕虜になることも、今いう法に触れることになります。前線では、夜間、誰何して、三回呼んでも返事がない場合殺してもよいことになっています。これも法です。

 渡嘉敷では、勝てば官軍で負ければ賊軍のとおり、日本軍は、「何をやっても賊軍の扱いです。実際には法を施行したに過ぎません。

 そのうえで大城さんは、「自決命令」の有無について“ 赤松命令説 ”を否定するのであるが、その根拠としては、同隊長が当時「自分の部下さえ指揮できない状態」にあったことを指摘している。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

赤松隊長とは、島に駐留していた海上特攻隊の指揮官、赤松嘉次(よしつぐ)大尉を指している。これまでの論争でも、彼の命令の有無が大きな争点になっている。

 では、「自決命令」が出なかった――あるいは出し得なかった――とすれば、集団死の理由はなんであったのか。大城さんは「教育」と、教育が帰結した「自発性」と、自発性を引き出すきっかけとなった場の「はずみ」を挙げる。

(中略)

 さらに大城さんの証言は、慶良間における強制された集団死の実相に迫る重要な内容を含む。

 我々が軍の法に従って行動すると、自分の故郷ですから、つらいこともありました。住民をいじめなければならない立場は、人間として矛盾があります。住民は戦争はしませんから、作戦に関係ないと思っておりました。こちらは住民にやってはいけない事が少なくありません。捕虜になられると、こちらの人知や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては、大変迷惑な話です。

 敵につれ去られていって、四、五日してから帰って来る。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します。私は土地のものですから、事情に詳しいので、上官は私を側において取り調べをやる。罰するのは下の私です。私がやらなければ、又私自身も変な目で見られる。これが大変つらかったです。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

住民に対する自決命令はなかった。しかし、スパイと疑われた住民は、民間人であっても軍規によって殺された。証言者もまた、同じ島の仲間を罰したと証言しているのが辛い。罰したとはどういうことなのか――。

赤松隊長の副官だった知念朝睦さんはさらに踏み込んだ証言を残している。

 赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。

 私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。

 このように、知念さんは“ 赤松命令説 ”をきっぱり否定する立場に立つ。

(中略)

 そのような中で、米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来ました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでいました。

 少年たちは年が年ですから、戦争の恐ろしさも、軍規の厳しさも何も知らなかったのでしょう。軍隊では当然利敵行為は許しません。村民が捕虜になって、人知や兵力に関する情報が敵に通じないという保証は出来ません。そういうことで私も人を斬りました。

 さらに八月十七日になって「米軍の投降勧告文書を持って人知にやって来た二人の男が処刑され」たという。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

沖縄本島の戦闘に先駆けて始まった渡嘉敷島の戦闘でしたが、日本軍の司令部は終戦ののちまで生き残り、17日に米軍と武装解除のための会談を行ったという記録もあるそうです。国としての敗戦を迎え、さらに降伏のための段取りを踏んでいた段階に至っても、住民に対する軍規による処刑は続いていたということです。

しかし、それにしても少年を折檻して、自死させるとは。

命令の有無ではなく、問題の本質は別のところにあることが、ここまでの証言から明らかです。

それでは、この悲劇の原因はどこに求めればいいのか、著者である明田川融氏は次のように分析する。

方法としては、手榴弾による爆死、紐や手による扼殺、首つり、刃物による刺殺などのかたちがとられた。また、動機について見ても、米軍により残虐行為が加えられるという脅威からの逃避、軍命令、皇民化教育がもたらしたある種の強迫観念などがあった。したがって、赤松戦隊長による「集団自決」命令はあったのか否かという一点に強制された集団死の問題を収斂させることは、むしろ慶良間戦における、そして沖縄戦における、さらにはアジア・太平洋戦争における強制された集団死のもつ問題性の大きさと深さを理解することから私たちを遠ざける危険性をも孕んでくる。

じつは、このような指摘は、すでに一九八五年の「太田・曽野論争」のさいに、大城将保氏によって示されていた。すなわち、「隊長の直接命令があったとしても責任をすべて赤松氏だけにおしつけるのは妥当とはいえないし、また、直接命令がなかったとしても赤松隊長の指揮官としての責任がすべて免罪になるものはな」く、問題の核心は、沖縄守備軍の住民対策の根本方針を問うこと、そして、その方針が住民側に伝達されるメカニズムの解明にあるという指摘である。

引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房

「太田・曽野論争」とは「沖縄タイムス」による「鉄の暴風」の執筆者の一人である太田良博(りょうはく)氏と、作家の曽野綾子氏の間での論争。より広い視野から問題をとらえなければ、住民が集団自決した状況は見えてこないだろう。

慶良間諸島での戦いは、その後の沖縄本島における戦闘での日本軍の住民対応に大きな影響があった可能性が高い。「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓が住民にも強要され、さらには島言葉を話すだけでスパイとみなすといった極端が横行したというのだ。

多くの住民を巻き込んだ沖縄戦を、悲劇という言葉で丸めてしまうことは、沖縄での戦争を理解することの妨害となる。私たちは沖縄戦の具体的な状況をもっと知らなければならない。