被災地のゴミと落書き

だとしたら、被災地の落書きやゴミの見え方が変わってくる。見たくもない酷い写真をたくさん見ていただいたけれど、写真の意味が変わってくるのではないか。

もちろん捨てたり壊したり落書きしたりする奴が最低なのは言うまでもない。しかし、被災地のゴミや落書きは、別の何かを突きつけているように感じるのだ。

先日亡くなった登山家の敷島悦朗さんの持論のひとつに、人間とはゴミを捨てる生き物という考え方があった。鳥が巣の外に糞をするのと同じというのだ。アリが蟻塚を作るのと同じ。貝塚は昔の人間のゴミ捨て場だとも言った。敷島さんは「ゴミを捨てるのは悪いこと」とか「ゴミ拾いしながら山に登るクリーンハイクはいいこと」など、無批判に受け入れる姿勢を批判した。究極の反対命題といえるだろう。

人はいいこともするし、悪いこともする。

その前提でルールの成因を分解して再構成しながら考えることがなければ、ただ「ルールを守りましょう」という標語を繰り返すことにしかならない。

切れ者という印象が定着していたお笑い系タレントが「代案のない反対意見は一番よくないこと」と、まるでどこかの政治家のようなことを言い放ったのと同じく無意味な思考停止だ。反対と代案の有無は論理上何ら関係ない。

しかし、「いい/悪い」とは何なのか。倫理ってなんなのか。その答えがどこから導き出せるのか。そう考えると、糸口すら、見当もつかない。それも事実だ。

この問題は倫理学はもちろん哲学でも宗教でも、考えてみれば明確な答えなど出されていないことなのだ。たとえば人を殺してはいけないとすべての宗教は言う。だが、その理由が明らかにされたことなど、これまで一度もない。盗むべからずもしかり。不法投棄すべからず。落書きすべからず。すべてそうだ。それってきっと、長い人類の歴史の中でバトンを渡されてきたということなのではないだろうか。

そして同時に、そんなことするのは悪いこと、という意識もある。やはり根拠は示されないままに。とても大雑把な言い方をすれば、倫理とは生き物としての存在と、社会的存在としての人間の間の断層から生起しているものなのかもしれない。

すんません。小難しい話になって。

ただ、霧の向こうにかすかに見えるような気がすることもある。それは、壊された大津波資料館「潮目」の主が、建物の修復に地元の若者が参加してくれたことを「成果」と呼んだこと。その辺りに繋がっているような気がしないでもない。

人まかせとか、他人事ではないということなのだろうか。あらゆる宗教も哲学も、最終的には「お前自身の問題だろ」て言ってきただろうことは間違いない。

被災地のゴミのこと。長いゴールデンウィークにも考えてみようか、と思う。