斎藤きち
1841年11月22日-1890年3月27日
昨日は「きち」さんの125回目の命日でした。
黒船来航、日米和親条約、日米修好通商条約
時は江戸時代、1853年7月8日夕方5時。浦賀(神奈川県横須賀市)に、黒塗りの艦隊が現れました。艦隊は、当時の日本人がこれまでに見たこともない、2艦の大型蒸気外輪船とそれぞれが帆船を1艦ずつ曳航する計4艦。黒船来航の瞬間です。
アメリカの蒸気船海軍の父とたたえられ、アメリカ海軍東インド艦隊指令司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が率いる艦隊の来航の目的は、日本を開国させることでした。
産業革命により、西ヨーロッパ各国が植民地獲得などで市場拡大していく中、インドや東南アジアに拠点を持たず出遅れたアメリカは、中国、日本に拠点展開を図っていました。
2度の来航と、圧倒的な軍事力を背景に、幕府は腰折れ状態で、『日米和親条約』の締結となりました。
『日米和親条約』の主な内容は、
・アメリカの遭難者・漂流民の救助・保護の義務
・下田(静岡県)、箱館(北海道函館)の開港とアメリカ捕鯨船への物資・食糧の供与
・下田にアメリカ人居留地と外交官(領事)を置くこと
・ 片務的な最恵国待遇(他の外国と結んだ有利な条約はそのままアメリカにも適用 される待遇)
でした。
この条約により、下田と箱館が開港され、日本の鎖国が解かれました。
そして、アメリカ人が日本に滞在する休息所として玉泉寺(ぎょくせんじ)・了仙寺(りょうせんじ)が定められ、日本でアメリカ人が死去した場合には玉泉寺の米人墓所に葬られることが決まりました。
初代駐日アメリカ合衆国大使としてタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)が赴任し、玉泉寺にアメリカ領事館を設けます。
現駐日大使キャロライン・ブーヴィエ・ケネディ(Caroline Bouvier Kennedy)は、ハリスから数えて第29代目となります。
ハリスの役割は、日米和親条約の詳細を詰めること、日本との自由貿易実現のための日米修好通商条約の締結でした。
1857年6月、了仙寺にて、『下田条約』が締結されます。
全9条からなる条約で、新たに長崎を開港すること、アメリカ人の下田・箱館居留を許可すること、またアメリカと日本の貨幣を同種同重量(金は金、銀は銀)で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収することなどが定められました。『日米和親条約』の補完で、翌1858年に締結される『日米和親条約』の前段となる内容の日米協定です。
ハリス倒れる~下田一の人気芸者に白羽の矢
日米外交を精力的にこなしていたハリスでしたが、下田条約締結目前の5月に、吐血して倒れます。慣れない異国生活と疲労により、持病の胃潰瘍が悪化したのです。
ハリスの通訳のオランダ人、ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・フースケン(Hendrick Conrad Joannes Heusken、英語名ではヘンリー・ヒュースケン)は、ハリスの世話をする「看護婦」の斡旋を地元の役人に依頼しますが、当時の日本には「看護婦」の概念そのものがなく、「妾(めかけ)」の斡旋依頼と勘違いします。幕府の役人は、下田で一番の人気芸者の「お吉」に白羽の矢をたてます。
この時、お吉は17歳です。昔の歳の数え方ですから、数えで17歳、今でいえば、まだ16歳です。
お吉には、幼なじみの船大工の「鶴松」という許嫁(いいなずけ、婚約者)がいました。頑なに拒むお吉ですが、幕府の役人はハリスに取り入って条約締結を有利に運びたい思惑もあり必死です。お吉には支度金25両と月10両の給金、許嫁の鶴松には「苗字帯刀(みょうじたいとう)」と「大工頭の組下(だいくがしらのくみした)」という立場を用意します。
※1両の価値を現在価値に換算するのは困難です。翌年締結される『日米修好通商条約』では、洋銀1ドル=1分銀3枚、1両=4.65銀ですから、当時のドル加算では1両=1.55ドルとなります。
また、1両を当時の物価比較で現在価値に置き換えると、米の価格換算では4万円、蕎麦(そば)の代金で12~13万円、鶴松が大工ですから、大工の手間賃で換算すると30~40万円くらいの価値になるようです。
※「苗字帯刀」の「苗字」は領主階級であることを示す苗字を公称する事(自身が領主階級であることを公に示すこと)ができることを言います。「帯刀」は豊臣秀吉の刀狩り以降、護身用の小刀は多めに見られていましたが、長刀は武士階級にしか認められていませんでしたので、その長刀を差すことを認めるということです。身分制度の頂点を与えられたことになります。
※「大工頭の組下」の「大工頭」は大工の棟梁ではありません。領内の大工職を統轄した幕府の役職です。武士またはその身分をもち、作事奉行(幕府における造営修繕を管理する奉行)の支配に属します。「組下」とは、その役職の構成員ということですから、今でいえば国土交通省の官僚級の待遇を用意するということです。「大工頭」自体が、江戸に二人、京に一人しかおらず、江戸住まいの大工頭の給料は、家禄と言われる基本給の他に米200俵の役職手当と20人扶持の家族手当がついています。役職手当と家族手当の「200俵20人扶持(扶持は家族や家来の人数に応じて、1日男は米5合、女は米3合を支給するということ)」は、「蔵米知行(くらまいちぎょう)」といわれる江戸時代の幕府や藩の給料制度で、年間で18万kgの米の現物支給にあたります。現在価値にすると、役職手当+家族手当が60万円ということです。その大工頭の部下になりますから、今の国土交通省の部長級が、鶴丸に用意されたと考えられます。
お吉には法外な支度金と月給、鶴松には最上級の身分と国土交通省の部長級の官僚の役職をぶら下げて、幕府の役人は、お吉を揺さぶったわけです。
そしてもう一つ、「お国のために」です。お吉の決断が外国から日本を救うことになると執拗に迫ったわけです。
繰り返します。お吉は満16歳です。11月生まれですから、今ならまだ高校2年生です。こんなにも重いものを幕府は16歳の少女に背負わせたのです。
それでも頑なに断り続けたお吉の心は...
「幼馴染の鶴松さんと結婚して、ささやかでもいいから幸せな家庭を築きたい」だけではないでしょうか!!
『唐人お吉の生涯 (前半)』 Tojin Okichi ~ 悲劇のヒロイン ~
『唐人お吉の生涯 (後半)』 Tojin Okichi ~ 悲劇のヒロイン ~
説明を端折って動画の力を借りました。失礼しました。
ハリスという人、お吉という少女
動画の中でも、お吉の役割は決して「妾」ではなかったとされています。
それでもお吉が承諾したのは、断れないことを知っていたからだと思います。きっと「妾」として手籠めにされたあとは、舌を噛んで死ぬ覚悟をしていたのではないでしょうか。「鶴松さんだけは、幸せになってほしい」と。
そもそもハリスという人は、敬虔なクリスチャンで生涯を独身、童貞で通したとされています。駐日大使として日本に来る前は、ニューヨーク市の教育局長であり、ニューヨーク市立大学シティカレッジ(卒業生の中から9人のノーベル賞受賞者を輩出)の創設者でもあり、公共政策に尽力した立派な人物です。だからこそ、アメリカとしても重要な役割を担う初代駐日大使として、日本に送りこんだのです。
アメリカは西ヨーロッパ諸国に対する対抗策として、日本の開国と自由貿易という国家戦略を成功させなければならず、その重要な国家戦略の激務の中で、胃潰瘍を悪化させ吐血をしながら「妾」を囲うなど、するわけないと思いませんか?
胃潰瘍で吐血ですよ!生死の境で、相当な激痛の状態です。
しかもハリスは、敬虔なクリスチャンで、日本人にしたらアメリカの教会にもあたる法泉寺に住み、すぐ近くの部屋は、通訳のヒュースケンが使っていたのです。奉公にあがっていた侍女は、お吉のほかにも数人いました。これが「妾」の要求であれば、ハリスは化け物です。
お吉は病気(腫れ物ができたとも言われる)になったため、3日間で暇をだされたといわれています。「妾」を覚悟で、宝泉寺の領事館のハリスのもとへ行ったのです。そりゃ腫れ物もできます、病気にもなります。そのくらい「嫌」だったのです。法外なお金に目がくらんで、ホイホイと軽い腰で通っていたならば、腫れ物なんかできやしません。
※3日で暇をだされたことには諸説あります。「妾」として送り込んだ幕府の思惑に気づき、怒って解雇した説。また、しばらくして、お吉の家族側からの申し入れで再雇用され、3ヶ月(実質2か月と数日)再雇用された説があります。
3ヶ月説では、アメリカと日本の暦の違いによる給料の締めと支払いに計算方法に違いがあって、2ヶ月と数日の実質勤務でありながら、3ヶ月分の給料が支払われたことに世間がやっかみ、お吉を「唐人」と呼び差別するきっかけとなったと分析しています。また、暇をだされたお吉の家族が再雇用を依願したのは、決して「妾」ではないことがわかり、それなら給料も良いし、ハリスさんも心配だから、介抱してあげたいとの思いからの依願だったとする考え方です。ハリスのために牛乳を用意したことを考えると、たったの3日の奉公では、とても無理だと思うので、私は3ヶ月説に賛成です。3年説もあります。
※牛乳を飲むことが広まったのは明治4年で、皇室が毎日2回牛乳を飲んでいるという新聞報道がきっかけになり、大名や旗本の屋敷跡で牛を飼って牛乳を売るようになったそうです。文明開化時代の欧米ブームってやつです。
初めて日本人が牛乳を飲んだのは、大化の改新の頃に百済を経由して皇室に献上された「薬」としての牛乳。
酪農のきっかけができたのは、8代将軍吉宗(TVでの暴れん坊将軍)が、やはり治療のため「薬」としての牛乳を飲むために、インドから牛3頭を輸入して千葉で飼育をはじめたことが、きっかけとなっているようです。
ここは3ヶ月説で話を進めます。
お吉は、病床のハリスのために牛乳の確保に奔走します。当時の牛乳はご禁制の品です。牛の乳は将軍様以外は飲めない代物ってことです。それでもお吉はハリスのために、下田近在から和牛の乳を集めます。ハリスは15日間で、約1リットルの牛乳を飲むことができます。お吉はやっぱり再雇用されていると思います。ご禁制の牛乳を奉公にあがっていた3日間で集められるわけないです。しかも、この牛乳にかかった代金は、一両三分八十八文、米にして3俵(180kg)分の金額だったそうです。そりゃ高価ですよ、将軍様しか口にできない超高級な「薬」ですから。健康保険も利きゃしません。
もの凄く献身的な女性ではないですか。美貌もさることながら、その心遣いは、さすがに下田田一の人気芸者と言われるだけあります。これだけの女性を許嫁とする鶴松は、実にうらやましい限りです。
そして本当に役割が終わったとき(ハリスの容体が回復したため)、世間から「唐人」や「ラシャメン」(異国人の妾、娼婦という意味)というレッテルを貼られるのです。お国のために「妾」を覚悟したお吉にさんざん感謝していた周囲は、今度はお吉を罵声を浴びせるのです。
下世話な話になりますが、もし本当に「妾」を要求していたのなら、容体回復してからの方が必要でしょう、まったく。
まだ16歳の子供ですよ。その子供が、一旦は、それこそお国のために決死の覚悟で、幕府の言いなりになったのです。よくもまぁ、そんな冷たい仕打ちができるものだと強く言いたいので、書いてるわけです。
そんな状況ですから、芸者に戻っても今まで通りとはいきません。それでも横浜で鶴松と一緒に暮し、自分は髪結い(美容師)になります。4年後に鶴松と一緒に、下田へ戻り、下田で髪結いを開業します。働き者じゃありませんか。
ところが、お吉に対する偏見は消えていないため、客足が遠のきます。酒に溺れたお吉は、喧嘩が絶えなくなった鶴松とも破局し、髪結い業は廃業に追い込まれ、一人下田を離れ、三島の金本楼(遊郭だと思われます)に身を寄せ芸者をします。
この頃の三島には、遊郭がたくさんありました。豊臣秀吉が北条家討伐をする小田原城攻めの際、兵士を慰労するために、三島に遊郭を作らせたのが始まりです。江戸時代でも、箱根越えの宿場町として(東海道五十三次の三島宿)たくさんの旅籠(はたご、旅館ですね)がありましたから、その後も遊郭は栄えていました(十数件あったようです)。
お吉は、芸者です。遊女ではありませんので、お間違いなく。
元々は下田一の人気芸者で、幕府が日本の命運を賭けたほどの器量良しですから、三島で芸者で身を立てて、2年で下田に戻ります。
ところがそこで知ったのは鶴松の死です。鶴松とよりを戻すことを夢見て三島で頑張ったような気がしてなりません。鶴松の死は、お吉には相当なショックだったのではないでしょうか。