「がんばろう!石巻」灯びが教えてくれること

大晦日の朝、「がんばろう!石巻」のかんばんに行った。もしかしたら会えるかもしれないなと、少し期待をもちつつ門脇地区に入る。

朝日を浴びる「がんばろう!石巻」のかんばんと黒澤さん

期待したとおり、その人はいた。震災前まではこの場所で店舗を構え、震災から1カ月後の2011年4月11日に「がんばろう!石巻」のかんばんを作り、それからずっと被災地に「がんばろう!」と呼び掛け続けている人、黒澤健一さん。

黒澤さんは、かんばんの周りを掃除していた。一年の締めくくりの日。「がんばろう!石巻」のかんばんに、きれいな姿で新年を迎えてほしい。黒澤さんの気持ちが伝わってくる。枯れたり寒さにしおれた花を取り除く。献花台に供えられた飲み物の容器など片付ける。かんばんの周りを掃き掃除する。ほんの少しだけだけど、掃除を手伝った。

「がんばろう!石巻」のかんばんを掲げてから、黒澤さん達はかんばんの周囲に新しいアイテムを少しずつ増やしている。かんばんの近くに流れ着き、たくましい生命力で震災の夏に咲いたひまわりを「ど根性ひまわり」と名づけ、全国へ、さらには海外にも広めていく。震災翌年の3月11日には灯火を設置する。花を供える献花台も新設した。この場所を襲った津波の正確な高さを表示する津波到達ポールも立てた。被災した町の情報と応援メッセージを伝える音声ガイダンスも自分たちで作成した。昨年にはたくさんの人が参加してモザイクタイルモニュメントを作成した。

「灯火に給油するんだけど、やってみます?」と黒澤さんが声をかけてくれる。うれしかった、勝手にサポート会員の1人として。

震災の翌年につくられた灯火には、こんな思いが込められている。

「木で作ったかんばんは、いつか朽ちてしまうでしょう。木に限らず、物質は永遠にはあり続けないから。だけど、火は形があるようで形がない。灯す人さえいれば、ずっと灯し続けることができる」

……。風景がまるで変わってしまった門脇で、珍しく風も穏やかな中、黒澤さんの声が空気をふるわせる。

種火は北上・大川地域、雄勝地域、女川町、渡波地域、門脇・南浜地域、大曲浜地域、野蒜地域から流されたままの被災家屋の木片を集めて起こした。被災した家屋の残骸はしばしば「がれき」と呼ばれるが、そうじゃない。津波の直前まで人々とともに町にあった建物の一部だ。そこに生きてきた人々の歴史が込められたものと言っていい。そんな木片に亡くなった人たちへの追悼の思い、生き残った自分たちの「がんばろう」とする思いが種火に込められた。

灯びは、亡くなられた人たち、かつてそこにあった暮らしと、被災して今がんばっている人たちを繋ぐものなのだ。

その灯びを絶やすことなく伝えていくことは、「思いつづける、忘れない」という気持ちをずっと受け渡し続けて、「未来」へと届けていくこと。

追悼の火はさまざまな場所でも灯されているが、そのほとんどがガスによるものだ。しかし、津波で流された門脇の町にガスはない。外国製のランプに燃料を補給し続けることで火を絶やさないようにしているのだ。一日に何回くらい給油するかというと、

「毎日2回」とのこと。

雨の日も風の日も(海からずっと平坦な地になってしまった門脇は、たいていいつも風が強い)雪が積もっていても、朝と夕方には「がんばろう!石巻」かんばんの所へ給油しに通う。職場から、出先から、自宅から。もちろん毎日だ。

それが継続するということ。未来へつないでいくということ。

口で言うだけなら簡単だけど、そのことをずっと続けているということに、黒澤さんたちの立派さがあると思うと感想を言ったら、

「そうですか、普通だと思うけど。普通でしょ、普通。あなたもそうじゃない」と返されてしまった。

「あなたも」などと予期せぬ言葉を返されて、身が縮む思いだった。

でもそれは、一緒にがんばっていきましょうという励ましだったのだと思う。ちっともがんばれてないし、黒澤さんとの約束も果たせてない。会えてもいい経過報告ができなくて、いつも「申し訳ない」ということばかり言っているような気がする。

2015年はもっとがんばろうと思う。いや1年限りの話なんかではない。黒澤さんのランプへの給油と同じく、続けていくことなのだ思う。

2014年の終わりの日、「がんばろう!石巻」のかんばんと、灯びと、守り続けている黒澤さんに大切なことを教えられた。