震災当日の夜、真っ暗な新聞社で近江さんが考え抜いた「やるべきこと」

その日から、印刷した新聞を記者や社員が自分たちで避難所に配って回るという日々が始まりました。自転車で配れる場所は自転車で。遠方の避難所へは、被災を免れた自動車に相乗りして、会社帰りに1人10カ所の避難所を回るという毎日です。新聞を配って回るだけでも数時間かかりました。

それでも、被災した町で新聞を発行し続けることができたのは、社員たちが諦めなかったからだと思います。「避難所で新聞を待っている人がいるから」。「新聞を届けに行ったら、味噌汁をごちそうになりました」。彼ら自身も被災者である社員たちは、口々にそんな話をするのです。

石巻日日新聞は震災によって多くの読者を失いました。社員も会社も大きなダメージを受けました。それでも、「災害の時だからこそ自分たちはやるんだ」という思いがみんなを支えていました。社員たちの姿には、「生きざま」とか「ありよう」といった大切なものを知らしめてもらったように感じます。

石巻日日新聞は、石巻市と女川町、東松島市を中心に活動する小さな地域新聞です。しかし地域のコミュニティに一番近い情報会社だからこそ、そして東日本大震災で大きな被害を受けたからこそ、この地域で生きていく「生きざま」を貫いていきます。これは、自分自身心に期している「生きざま」であり、「ありよう」なのです。

復活した新聞は値下げして発行

最後に、想定外と言われた震災を経験した立場から皆さんにお伝えしたいのは、大地震は「想定」ではなく「必ず起きる」ということです。その時はまず逃げて下さい。ぜひ逃げて、何としてでも生き延びて下さい。ご清聴ありがとうございました。

Profile

1958年石巻市渡波生まれ。大学卒業後、短期間の自動車会社勤務を経て、マリンスポーツ用ウエットスー ツの製造・販売会社を友人と手掛ける。会社を世界的メーカーに成長させる原動力として活躍するが、父親の死をきっかけにその後の人生のテーマを「地域の活 性化」に方針変更。地元石巻エリアの振興を目指し、2006年4月、社会人サッカークラブ「コバルトーレ女川」を設立。同年6月より石巻日日新聞社の経営 に参画。コミュニティに一番近い情報企業とサッカークラブを「ツール」として、過疎化が進む地域の復活を目指してきた。2011年3月11日以後も、その 思いは変わらない。

編集後記

「ワールドカップのような世界的なスポーツイベントが開催されると自殺率が低下するんです。人間にとって、何かに帰属していると思えることは、前に向かって生きる力になるのですね。私たちが帰属する第一の場所、それは地域です」。近江さんがそう語る大切な地域は東日本大震災で大きな被害を受けてしまいました。津波に翻弄され尽くした石巻の光景は、近江さんの大きな瞳にどう映ったのでしょうか。講演では淡々と語り続ける近江さんでしたが、ギラリと光る眼差しに、観衆の多くが彼の決意を感じとったはず。近江さんは諦めることを知らない人物だと。復興への道のりが、まだはるかに遠いにも関わらず「地震が来たら生き延びて」と講演を締め括った近江さんの言葉を受け止めるためには、私たちにも「生きざま」に対する決意が必要だということを感じました。(2012年2月16日取材)

石巻「絆の駅」で聞いた後日談

震災から今日に至るまで、近江さんは全国各地で公演を行ってきた。近江さんはそれを「震災の記憶を風化させない活動」と呼ぶ。何カ所くらい? と質問しても「分からないな」という返事しか返ってこないほど、回数も訪問場所も多い。もしかしたら社長業よりも力を入れているのではと疑いたくなるほど。

さらに近江さんは2012年には、内海橋に通じる町なかに「石巻ニューゼ」と「レジリエンスバー」をオープンした。ふたつ合わせて「絆の駅」。ニューゼはニュースとフランス語で美術館を表すミュゼを合わせた言葉、つまりニュース博物館。手書きの壁新聞の実物のほか、100年以上の歴史を刻んできた石巻日日新聞の豊富な資料をもとに多彩な企画展示も行い、復興の道を歩む石巻地域の姿を国内外に発信している。

石巻ニューゼの2階にあるのがレジリエンスバー。レジリエンスとは「変化する力」という意味。被災した町が再生していく過程では様々な困難に直面する。多くの人々が交流し、時間をともにする中から、困難を乗り越えていくしなやかな力、変化する力を涵養しようというスペースだ。昼間はハンドメイドのケーキや特製ランチを楽しめるカフェとして、ナイトタイムは大人がゆったりとくつろげるカフェとして人気を集める。

文中でも触れたように、震災で人口が減少した地域で、しかも購読者の多くが被災した土地で地域新聞が事業を続けていくことは簡単なことではない。にも関わらず近江さんは「風化させない活動」で全国を飛び回る。ニュース博物館や交流の場としてのカフェを開く。さらに自身がGMをつとめるサッカークラブ「コバルトーレ女川」を、震災後の2013年には東北一部リーグに再昇格させるほどチーム運営に力を注いでいる。

その原動力は何なのか。近江さんは「地域の復活」のため、とさらりと答える。地域とは、人が生きていく場であり、未来のこども達に受け渡していくべきもの。そのように考えてはじめて、新聞・博物館・交流の場・サッカーチームという事業がつながってくる。驚いたのは、このようなプランは社長に就任した頃、つまり震災の前から練ってきたものなのだという。

震災を乗り越える力、地域をまるごと復活させていく力。レジリエンスバーをオープンさせた頃、近江さんがしきりに語っていたのは、「立ち上がることができた人間が先に進んでいくことで、まだ立ち上がれない人たちための通り道になるだろ」ということだった。石巻出身なのに関東での生活が長かった、どこかベランメイ調のようにも聞こえる湘南なまりで時々付け加えられていたのは、「自分だって踏ん切りがつくまでには時間がかかったんだぜ」という言葉。

石巻の絆の駅に行けば、近江弘一さんが持っている、そして石巻日々新聞の人たちが確かに共有している熱くてレジリエントな魂にきっと触れることができるだろう。

ニューゼからレジリエンスバーへの階段に掲げられた千葉蒼玄さんによる「変化する力」