[11月20日という日]世界こどもの日

11月20日は世界こどもの日

こどもの日が「こどものための日」じゃないと気づいたのはいつのことでしたっけ…。日本のこどもの日は5月5日。でも、パーティをするわけじゃなく、プレゼントをもらえるでもなく、ケーキを食べる特別の日でもありません。

こどもの日はこどものための日ではなく、こどもの成長と前途を大人たちが言祝ぐ日なのですね。

11月20日は世界こどもの日。「子供の権利宣言」の30周年に当たる1989年に「子供の権利条約」が国際連合で採択された日です。

国連による2010年の推計では、15歳未満のこどもの人数は約18億4200万人で、総人口の26.6%を占めています。少子高齢化と言われる日本でも20歳未満のこども達は人口の17.5%、2224万人もいるそうです。(統計局の人口推計・H26年10月の概算値)

世界のさまざまな場所で、さまざまな境涯を生きている20億人近くのこどもたち。その1人ひとりに明るい未来を準備することが、大人たちにとってもっとも重要で崇高な仕事であることは間違いないでしょう。

歴史の中の11月20日

▼1917年 第一次世界大戦の膠着した西部戦線で戦車が貢献したとされる「カンブレーの戦い」が始まる

撃破されたイギリス軍の戦車。1917年11月29日

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フランス北部、ベルギー国境近くのカンブレーの南西側のドイツ軍塹壕陣地に対して、イギリス軍が歩兵、砲兵、戦車など諸兵科による連携で挑んだカンブレーの戦いが開始された。とくに塹壕陣地の突破に戦車が大きな役割を果たしたとして注目されてきた。

このイギリスの攻勢によって塹壕陣地は破られ、ドイツ軍は大きく後退する。しかし、ドイツ軍砲兵は戦闘が始まってしばらくするとイギリス軍戦車の装甲の弱点を見つけ出し撃破するようになる。後には、少数の精鋭部隊で敵陣の弱点を制圧した後に重装備の舞台を進出させる新たな戦術、浸透戦術により失地をほぼ奪回した。

▼1945年 ニュルンベルク裁判が始まる

第二次世界大戦の終結後、ドイツによる戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判が始められた。

第二次大戦後の国際軍事裁判では「平和に対する罪」「人道に対する罪」が追及されたが、大戦前には戦争責任者を国際的に裁くことは条約として締結されていなかった。

ニュルンベルク裁判では米英仏ソの連合国4カ国から2名ずつの判事が選任され裁判に当たった。裁判では空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング、ナチ党官房長マルティン・ボルマン、東部占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルク、外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップらに死刑判決が下された。(ゲーリングは死刑執行前に自殺した)

ニュルンベルク裁判の被告席

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▼1948年 日本で最初の競輪が小倉市(現・北九州市)で開催される

福岡県で予定された第3回の国体を機に競輪競技場をつくったことから、公営ギャンブルとしての競輪を始めようという話が持ち上がり、この日10時30分、第1レースが発走した。競輪競技そのものがなじみが薄かったこともあり、選手は素人ばかり。出前持ちなど仕事で自転車に自信があった人たちも選手として出場したと伝えられています。

当初は赤字が心配された競輪でしたが、小倉競輪の成功を受けて全国に競輪場が開設されていくことになります。

▼1980年 毛沢東の死去で失脚した四人組の裁判が始まる

文化大革命を主導した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文のいわゆる「四人組」に対する裁判が始まる。文化大革命時代に権力闘争を繰り広げ、政敵を迫害してきたが、1976年の毛沢東の死の後逮捕され、この日に始まった裁判でクーデター計画や迫害などの罪で裁かれた。江青と張春橋に死刑判決が下された。

▼2001年 シアトル・マリナーズのイチローがMVPを獲得。日本人初の快挙

この日が誕生日

◆1886年 カール・フォン・フリッシュ

オーストリア生まれの動物学者。ミツバチが密の出る花の位置を仲間に知らせるための8の字ダンスを観察・解明した。生物学に「動物行動学」というジャンルを打ち立てる上での功績が評価されノーベル生理学・医学賞を贈られた。

◆1889年 エドウィン・ハッブル

アメリカの天文学者。ウィルソン山天文台で銀河系外銀河の存在を観測発表。さらに銀河の赤方偏移を発見したことで、膨張する宇宙という宇宙モデルを実証した。この発見は、宇宙が膨張し続けるのなら、その原初の姿はどうだったのかという疑問を呼び起こし、後にビッグバン理論につながっていく。パイプをくわえて望遠鏡を覗く写真は非常に有名。

彼の業績に因んで命名された「ハッブル宇宙望遠鏡」。[スペースシャトル ディスカバリー号から見たハッブル宇宙望遠鏡(1997年2月サービスミッションSTS-82での画像)]

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◆1889年 小野竹喬

小野竹喬(ちっきょう)は、大正・昭和の日本画家。岡山県笠岡市生まれ。竹内栖鳳に師事し、京都を舞台に活躍した。村上華岳、土田麦僊とともに国画創作協会をつくったことでも知られる。

◆1915年 市川崑

市川崑(こん)は三重県宇治山田市(現・伊勢市)出身の映画監督。記録映画を超えた高い芸術性が評価された「東京オリンピック」は数々の国際賞を受賞した。戦前から戦後まで、数え上げられないほどの映画、テレビドラマを監督した。

◆1926年 根本陸夫

茨城県生まれのプロ野球選手・監督・球団経営者。日本球界では極めて珍しい、成功したGM。現役時代は捕手(近鉄)。広島カープ、クラウンライターライオンズで監督を務める。1978年のシーズンオフにライオンズの経営が西武に移った後も監督を続け、森繁和、松沼兄弟、石毛宏典、秋山幸二、伊東勤、工藤公康らを獲得・育成した。81年のシーズン終了後に監督として広岡達朗を招へい、フロント業務に徹する。93年には低迷するダイエーホークスの代表取締役兼監督に就任。王貞治を監督に迎えてからも多くの選手を獲得・育成し続けた。

◆1932年 萬屋錦之介

歌舞伎役者、時代劇俳優。「子連れ狼」「破れ傘刀舟悪人狩り」などテレビでも大活躍した。

この日亡くなった人たち

・1975年 フランコ将軍

スペインの軍人、政治家(独裁者)。フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ。

・1976年 駒井哲郎

東京出身の画家。エッチングによる銅版画を追究し、芸術性の高い作品を残した。いまも高く評価されている。

・1990年 ヘルベルト・ケーゲル

ドレスデン生まれの指揮者。カール・ベームに師事。ライプツィヒ放送交響楽団の音楽監督、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団では首席指揮者をつとめた。東ドイツを代表するオーケストラ指揮者だったが、東西ドイツが再統合した直後、ピストル自殺を遂げた。理由は不明。

・1994年 福田恆存

福田恆存(つねあり)は東京出身の翻訳家、演劇人、評論家。シェイクスピア作品の翻訳と上演を精力的に行うとともに、保守の論客としても知られた。