[11月2日という日]カトリック教会では「死者の日」

キリスト教世界では11月2日は古くから「死者の日」

カトリックの典礼暦では、11月2日は古くから「死者の日」として、亡くなったキリスト者を記念し、祈りを捧げる日としてきました。

わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としています。「聖徒の交わり」とは、「聖なるものの分かち合い」と「聖なる人々の交わり」という意味を持ち、聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。
 教会はキリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。

引用元:死者の日 | カトリック中央協議会

カトリック以外のキリスト教、たとえばカトリックに厳しく対立し聖書に書かれた言葉以外のさまざまな風習を廃絶しようとしたプロテスタントの中ででも、死者の日の祈りに類する行事は残されているそうです。

秋から冬にかけての季節は、収穫の感謝の時であるとともに、日に日に昼の時間が短くなって行く冬至へ向かう季節でもあります。クリスマスの解釈のひとつに、太陽の時間が短くなる冬至を経て再び太陽が復活することを祝う行事という考えがあるのと同じように、11月2日を死者の日と定め、これまでに亡くなっていったでろう何億ものクリスチャンへの祈りを捧げ、また11月を通して死者の月と考えるのも、この季節が暗示する「死と再生」に対する畏敬の思いが、宗教的なものを超えて引き継がれてきたことの現れなのかもしれません。

もしかしたら、人間の原罪と救いをテーマとしたミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画の完成が11月2日とされていることとも、何らかの関わりがあるかもしれないと、そんなふうにも感じられるのです。

11月2日という日

▼1512年 ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が完成

原罪と楽園追放

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ローマ教皇ユリウス2世に命じられ、ルネサンスを代表する彫刻家ミケランジェロが作成したシスティーナ礼拝堂の天井画が完成する。完成の日付については11月2日という説のほか11月1日とする情報もある。

教皇から与えられたプランでは、天井画には十二使徒が描かれることになっていたが、ミケランジェロはこの計画を破棄し、創世記の物語を中心に350人以上の人物を描く大プロジェクトを挙行した。天井画を描くにあたってミケランジェロは足場に載せた板の上に仰向けになって描いたという話や、立って天井を見上げて描き続けたため首や腕、さらに眼まで痛めたというエピソードも伝えられている。

デルフォイの巫女

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『システィーナ礼拝堂天井画』(1508年 - 1512年) システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)

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▼1874年 讀賣新聞創刊

創刊当初は尾崎紅葉作の小説「金色夜叉」の連載や「身の上相談」を掲載する庶民的な新聞だったが、関東大震災後に経営難に陥る。その後1924年、前警視庁警務部長で後に衆議院議員、原子力委員会の初代委員長、初代科学技術庁長官をつとめることになる正力松太郎が買収。現在に続く基礎を築いた。

▼1917年 石井・ランシング協定

第一次世界大戦中、日米両国で結ばれた中国大陸での権益に関する協定。両国が中国における門戸開放政策を支持し、日本の中国における特殊権益(満州や東部内蒙古での権益)を認める内容で秘密協定も付帯していた。日本の元外務大臣石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された。

▼1945年 日本社会党結成

労働農民党、日本労農党、社会民衆党など、非共産党系の社会主義勢力が合同団結して結成。1947年の総選挙では比較第一党となり片山内閣が成立したが、55年体制下では長く自民党に次ぐ野党勢力だった。1994年には自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権で村山内閣が成立。村山内閣総辞職後には党勢は社会民主党に改称した。

▼1961年 柏戸剛と大鵬幸喜がそろって横綱に昇進

稀代の両横綱、柏戸と大鵬が揃って誕生。大鵬は「巨人・大鵬・玉子焼き」とも称された美丈夫。方や柏戸は「大洋、柏戸、水割り」と呼ばれた大人好みの相撲取り。残念ながら柏戸は横綱昇進前後から体調を崩すことも多くなったが、千秋楽の柏戸・大鵬の対戦は大相撲人気を大いに盛り上げた。(大の苦手の麒麟児に吊り出しで柏戸が破れて1敗となった後、大鵬と千秋楽対戦というパターンが多かったような記憶がある)

▼1976年 民主党のジミー・カーターが大統領選に当選

ピーナッツ栽培で成功した「苦労人」イメージのある民主党のジミー・カーターが、現職大統領であるジェラルド・R・フォードを破り大統領に当選する。任期は1977年からの1期4年。大統領退任後も積極的な外交活動を続け、2002年にはノーベル平和賞を受賞した。

▼1985年 阪神タイガースが初の日本一

三冠王のランディ・バースを筆頭に真弓明信、掛布雅之、岡田彰布ら猛打線の阪神が、初めて指名打者制をとった日本シリーズでパ・リーグの覇者ライオンズを圧倒。第6戦初回の満塁ホームランなど阪神打線の破壊力は圧巻だった。この年の8月には、日本航空123便墜落事故で球団社長の中埜肇を失っていた。

▼2004年 東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入が正式決定

この年のシーズン中に発覚した大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併話から持ち上がった、プロ野球再編、パ・リーグへの新規参入問題が、この日のオーナー会議で正式決着。ライブドアベースボールの参入は退けられ、楽天のみが新規参入。東北初となるプロ野球チーム「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生の運びとなる。

この日が誕生日

◆1699年 ジャン・シメオン・シャルダン
18世紀に活躍したフランスの画家。ロココ時代を代表する画家として名高い。国王ルイ15世やロシア女帝エカテリーナ2世からの信任も厚かったが、日常的な風景に題材をとった風俗画も数多く残した。後期印象派、とくにセザンヌへの影響も指摘される。

《赤エイ》1728年 油彩(114.5x146cm)ルーヴル美術館

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◆マリー・アントワネット

少女時代のアントーニア

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フランス国王ルイ16世の王妃。ハプスブルク家の一員としてウィーンに生まれる。ドイツ語名はマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。14歳でフランス王太子ルイとヴェルサイユ宮殿で結婚式を行う。この時から王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれる。

フランス革命渦中の1793年10月16日、コンコルド広場でギロチン処刑された。

困窮している民衆について「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言ったとされる言葉は、別人の発言だったとされている。

香水や宝石、髪型、ドレスのデザインなど当時のヨーロッパ貴族のファッションリーダーだったとされ、ハンカチの形を正方形にしたのも彼女だったと伝えられている。

◆1758年(宝暦8年10月2日)良寛
越後国出雲崎出身の禅僧。歌人、詩人としても有名。こどもの純真さを愛した人と言われ、こども達とかくれんぼうしながら田んぼで眠ってしまった話や、草庵の床下から生えてきた竹の子のために屋根に穴を開けた話など数多くのエピソードが伝えられ、童話としても親しまれている。

良寛71歳の年に発生した三条地震に際しての次の手紙も有名。

地震はまことに大変に候
野僧、草庵は何事もなく、親類中死人もなく、めでたく存じ候

うちつけに死なば死なずてながらえて
かかる憂き目を見るがわびしさ

しかし、災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

引用元:良寛の手紙

辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」

次の漢詩は良寛の心境をあらわすものとして有名。

生涯懶立身 騰々任天真
嚢中三升米 炉辺一束薪
誰問迷悟跡 何知名利塵
夜雨草庵裡 双脚等間伸

引用元:「双脚等間伸」良寛

◆1868年 横山大観

水戸に生まれた日本画家。東京美術学校の第一期生として岡倉天心、橋本雅邦に学ぶ。東京美術学校では菱田春草、下村観山らと机を並べた。校長である岡倉天心への排斥運動を受けて、大観は師・天心に従って日本美術院創設に参加する。

当時、苦難の中で生み出した描線を抑えた画風は「朦朧体」と呼ばれたが、当時はメリハリの少ないぼやけた絵といった批判の言葉だった。保守的な空気が支配する国内を逃れ、大観は春草とともに海外で展覧会を開催。海外では好評を博すも、国内で評価が高まっていくのはまだ後のことだった。

晩年は画壇の重鎮として89歳で没するまで活躍した。大の酒好きで米の飯をほとんど食べず、広島の清酒「醉心」をこよなく愛した。このエピソードは昭和期の学習漫画に登場するほど有名だった。

◆1906年 ルキノ・ヴィスコンティ
イタリア・ミラノ出身の映画監督。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「異邦人」「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」

◆1982年 深田恭子
東京都出身の女優。出演作、受賞歴多数。

この日亡くなった人たち

・1942年 北原白秋
福岡県柳川出身の詩人、歌人、童謡作家。