歴史の中の10月29日
▼1929年 大暴落「悲劇の火曜日」
ウォール街の大暴落としては10月24日の「暗黒の木曜日」が有名だが、大幅な下落は続き、29日は悲劇の火曜日、暗黒の火曜日と呼ばれるほどの大暴落となり、午後には市場が閉鎖されたという。第一次世界大戦後、世界の金融センターに成長していたニューヨークウォール街を襲った大暴落の影響はその後もしばらく続いた。
大暴落が世界恐慌の直接的原因という考え方には異論も多いが、この暴落が金融危機のきっかけとなり、各国に伝播。1931年にはイングランド銀行が金本位制を停止したことが、ブロック経済による植民地の抱え込みに向かわせ、ひいては第二次世界大戦前夜の対立の下地となったという見方もできる。
▼1956年 第二次中東戦争始まる
スエズ運河の国有化を発表したエジプトに対して、イギリスとフランスが派兵を企図。第一次中東戦争やエジプト革命でエジプトと敵対し続けていたイスラエルが先陣を切る形で、エジプトとイスラエル・イギリス・フランスが始まった。
しかし、11月に入って米ソ両国がイスラエルと英仏両国に対して撤退を通告。国連緊急総会による即時停戦を求める決議が行われ停戦が実現した。
▼1969年 家庭用ビデオテープレコーダ「U規格」が発表される
「U規格」は、後にベータv.s.VHS戦争を引き起こすソニーと松下電器、ビクターなどが発表した家庭用VTR規格。幅3/4インチ(約19mm)のテープを使った大きなカセットと大きなレコーダーが特徴だった。(VHS規格のテープ幅は1/2インチ)
機器もカセットも高価で、一般家庭にはほとんど普及しなかったが、70年代初頭に森昌子だったか、桜田淳子だったか、小柳ルミ子だったか、あるいはその全員か、当時の芸能誌で、「デビューしてもらった給料を貯めてVTRを母親にプレゼントした」とか、「初めての紅白は家族にプレゼントしたVTRで録画してもらう」といった記事がしばしば掲載されていたのを思い出す。
▼1969年 人工甘味料「チクロ」が発がん性のおそれから使用禁止
1956年(昭和31年)に食品添加物に指定されたアメリカ生まれの人工甘味料サイクラミン酸(チクロ)は、砂糖の甘さの50倍と言われ、多くの食品に利用された。その甘味は、ステビアやアスパルテームとはまったく異なり砂糖に近い味わいで、むしろ砂糖より美味いという人も少なくなかった。
アメリカで発がん性や催奇形性が指摘されたことを受け、昭和44年10月に厚生省は使用禁止を発表、さらにチクロ入り食品の全回収を決定した。清涼飲料水は昭和45年1月末まで、その他の食品は昭和45年2月末までと回収期間が極めて短かったため食品業界は大混乱。チクロ騒動とも呼ばれた。
使用禁止となったのを機に、店頭から永遠に消えてしまったお菓子も少なくない。チクロ後のお菓子には「全糖」という表示がしばらく付けられていた。チクロは使っていませんよという意味だ。ちょうど同じ時期にテレビ画面に「カラー」と表示されているのを、白黒テレビで見ていたのとどこか似たようなものが感じられて、何となく寂しかったのを覚えている。缶詰メーカーや漬物メーカーでもチクロ倒産が相次いだという。
参考:まほろし食品店 第4回「チクロは旨かった」の巻
厚生省が禁止した日付はWikipediaの記事に拠る
チクロはセピア色の過去の物語ではない。中国、カナダ、EUでは現在も使用が認められてるため、食品衛生法違反容疑で摘発される事件が散発している。輸入食品の検疫の主要な項目と考えられているのだとか。
▼1998年 横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併が発覚
フリューゲルスの出資企業のひとつだった佐藤工業(ゼネコン。現在も存続)の経営不振から合併話が進んでいた。フリューゲルスは実質的にマリノスに吸収され、その歴史を閉じた。
▼2008年 デルタ航空とノースウエスト航空の合併を司法省が承認
合併は4月に発表され、翌2009年1月31日に完了。当時世界最大の航空会社「デルタ航空」が誕生した。
就航都市は全世界350都市を超える。
この日が誕生日
◆1930年 ニキ・ド・サンファル
フランス・パリ出身のの美術家、彫刻家、映像作家。美術制作を始めたのは精神の病の治療のためとされる。「ナナ」シリーズで世界的な評価を得る。サイケデリックでありながら、色彩の調和を感じさせる多くの作品を残した。
◆1935年 高畑勲
岡山県出身の映画監督、演出家。「アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」「ホーホケキョ となりの山田くん」「かぐや姫の物語」など多数。
◆1939年 加茂周
兵庫県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。血液型はA型。Jリーグ発足時には横浜フリューゲルスの監督を務め、天皇杯で優勝した。1994年から1997年までサッカー日本代表監督を務めたが、アジア最終予選の途中で退任した。
◆1955年 志穂美悦子
岡山県出身の女優。時代を代表するアクションスター・千葉真一が主催するJAC(ジャパンアクションクラブ)出身の初の女優でもある。その美貌とアクションで一世を風靡した。劇場映画、テレビドラマなど数多くの作品に出演している。
◆1956年 周防正行
東京出身の映画監督「シコふんじゃった。」「Shall we ダンス?」など
◆1968年 つんく♂
大阪出身の音楽プロデューサー。シャ乱Qのボーカル。モーニング娘。をプロデュースする。
◆1972年 堀江貴文
福岡県八女市出身の実業家。ライブドア元社長。
◆1973年 前園真聖
鹿児島県出身の元サッカー選手。Jリーグ入団前から天才的との評価が高かった。横浜フリューゲルスでは加茂周監督のもと、ゾーンプレスを徹底して教え込まされ、少なからぬ確執もあったと伝えられるが「良くも悪くも彼こそが代表クラス。彼のような人材を育て上げるのが自分の使命」と加茂氏は語っていた。アトランタオリンピックのグループリーグでブラジルを倒す「マイアミの奇跡」に貢献した。
この日亡くなった人たち
・1911年 ジョーゼフ・ピューリツァー
ハンガリー系アメリカ人ジャーナリスト、新聞発行人。ピューリツァー賞はコロンビア大学ジャーナリズム大学院のために彼が残した資金を元に、彼の死後、1917年に始まった。
・1949年 中島知久平(ちくへい)
群馬県出身の軍人、実業家、政治家。海軍大学を卒業したエリート軍人だったが、航空機の重要性を痛感し、海軍を大尉で退任。民間航空会社・中島飛行機を設立した。戦時中には日本の航空機の3分の1を生産する大企業に育て上げた。1930年以降衆議院議員を務める。戦後の東久邇宮内閣では軍需相(後に商工相)に就任した。
中島飛行機は1945年8月、終戦を受けて富士産業と社名を改めるが、同年11月に財閥解体で解散。解体された中島飛行機からは富士重工業(スバル)、プリンス自動車(後に日産と合併)など多くの企業が生まれた。現在は合併によりトヨタ自動車東日本となっている関東自動車工業にも、戦後、中島飛行機の技術者が数多く参加し、トヨタスポーツ800などの新車開発を行っている。航空の重要性を痛感し、知久平が興した飛行機会社は、戦後の自動車産業再興にさまざまな形で貢献した。
・1993年 マキノ雅弘
「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三を父に、京都に生まれた映画監督。無声映画の時代、父が興したマキノプロダクションで映画監督デビュー。その後トーキー映画(音声同期映画)の製作にも成功するが、父が巨額の負債を残して死去。プロダクションの再興に努めるも失敗。その後は雇われ監督として日活、松竹、東映などでヒット作を連発する。「次郎長三国志」「昭和残侠伝 死んで貰います」など生涯に273本の監督作品を残した。