マハトマ・ガンジーの生誕を記念した世界非暴力デー
非暴力と不服従による抵抗をつらぬき、イギリスによる植民地支配からインドの独立を勝ち取ったマハトマ・ガンジー。マハトマとは「偉大な魂」を意味する贈り名で、彼の思想と行動は20世紀の平和運動に大きな影響を与えた。
非暴力という言葉は無抵抗主義を想起させかねないが、ガンジーの行動は抑圧に服従せずに抵抗することを暴力を使うことなく実践するというもので、無抵抗主義とは正反対のものだ。
ガンジーが残した有名な言葉に「七つの大罪」がある。
七つの大罪
労働なき富
良心なき喜び
人間性なき科学
人格なき知識
理念なき政治
道義なきビジネス
犠牲なき信仰
“Seven Deadly Sins
Wealth without work
Pleasure without conscience
Science without humanity
Knowledge without character
Politics without principle
Commerce without morality
Worship without sacrifice.”
― Mahatma Gandhi
引用元:Seven Deadly Sins ― Mahatma Gandhi
ガンジーは植民地主義による抑圧から人々を解放するために、七つの大罪に対して闘い続けた戦士だったといえる。
2007年の国連総会で、ガンジーが生誕した10月2日が「国際非暴力デー」に定められた。国連広報センターのページには、ガンジーの次の言葉が紹介されている。
非暴力行動とは、無抵抗や服従を拒否する人々や闘争は不可欠だと考える人々が、暴力に訴えることなく闘争を行うことのできる一つのテクニックである。非暴力行動は、闘争を回避もしくは無視することではない。それは、いかに効果的に行動するか、特にいかに効果的に権力を行使するかの問題に対する一つの回答である
植民地主義に抵抗したガンジーの誕生日は、植民地主義的色彩が濃厚なリットン報告書が公表された日でもあった
1931年(昭和6年)に発生した満州事変に対して、国際連盟が派遣したリットン調査団が報告書を発表したのが1932年10月2日。
その内容は、日本の満州における権益を否定するものではなく、「満州に於ける日本の権益は無視するを得ざる事実にして如何なる解決方法も右を承認し且日本と満州との歴史的関連を考慮に入れざるものは満足なるものに非るべし」と、むしろ日本の権益を積極的に肯定するものだった。
その上で、主権をもつ中国と日本が不侵条約を結び、満州に広範な自治を行うことを勧告していた。つまり「特殊な権益」を有する日本が中国領土の中で活動することを認めていたのだ。その上、中国は内部的改造が必要なので、そのために国際社会は協力を行うとまで提案している。
この報告書の意味するところは、当時のアジアの状況を思い出せばよくわかる。イギリスはインドと中国に、フランスはインドシナに、そしてオランダはインドネシアで植民地支配体制をとっていた。満州での日本の行為を糾弾することは、ブーメランのように自国に非難の刃が戻ってくることになりかねない。
そこで満州の領有権は中国にあるが、日本がそこに特別な権益を守るために、満州は自治地域とする。さらに中国そのものの内部的改造にかこつけて、自国の権益を拡大するチャンスをうかがう。そのような極めて植民地主義的な報告が行われたのだと考えられる。何しろ、調査団の委員は、元イギリス領インド帝国総督、フランス植民地軍総監、イタリアの外交官、元ドイツ領東アフリカ総督、アメリカ軍の将軍という顔ぶれだったのである。
そのような報告書が、植民地支配に抵抗を続けたガンジーの誕生日、しかも彼がインドの独立運動の最中にあった時代に行われたことは、歴史の皮肉だ。
歴史の中の10月2日
▼1930年 ロンドン海軍軍縮条約を批准
ロンドン海軍軍縮条約は、1922年に戦艦・航空母艦の保有量を国別に定めたワシントン海軍軍縮条約に続いて、巡洋艦以下の補助艦艇の保有量に制限を行うために1930年に開催されたロンドン会議で議決された条約。
ワシントン条約で英:米:日の保有比率が5:5:3で、日本は米英の6割に過ぎなかったことに危機感を抱いていた日本側は、対米7割実現の姿勢で会議に臨み、結果的には6.975割で妥結した。
条約は10月2日に国会で批准されたが、希望比率が実現されなかったことにマスコミや野党からの批判が集中。さらには陸海軍を統帥する天皇の裁可を得ずに兵力に関する条約に調印したことは天皇の大権を侵すものだとして「統帥権干犯問題」まで引き起こした。
現代からは想像が難しい世論の動きだが、ロンドン条約批准をめぐる国内の動静からは当時の日本を覆っていた時代の空気を読み取れるかもしれない。
▼1932年 リットン報告書提出
前年の31年(昭和6年)9月18日、奉天(満州、現在の中国東北部の都市。現在は瀋陽市)近郊の柳条湖で、南満州鉄道の線路爆破を日本軍が爆破(柳条湖事件)。日本軍はこれを中国軍による攻撃と発表し、満州地域の占領の口実として侵攻する。さらに日本は翌年、清朝のラストエンペラー溥儀を押し立てて満州国を樹立させる。一方、中華民国は満州における日本の軍事行動について国際連盟に提訴。日中ともに国際連盟のメンバーであったことから国際連盟は調査団を派遣。
イギリスの政治家でインド総督の経験者であるリットン卿を代表とする調査団は1932年1月から3カ月にわたって現地を調査した上で、この日、リットン報告書を国際連盟に提出した。
▼1941年 タイフーン作戦
不可侵条約を結んでいたソ連に対して、ナチスドイツが突然侵攻したバルバロッサ作戦に続き、作戦の第二弾としてモスクワ攻略を目的としたタイフーン作戦が開始された。早期にソ連を屈服させることができると目論んでの作戦だったが、ドイツ軍の主力の一部がモスクワから100キロ強の地点まで迫った頃から、秋の長雨により道路が泥濘化。戦車部隊の前進も、補給部隊の活動もままならなくなり戦線は膠着。冬になって泥道が凍結したことで進撃が再開したのも束の間、今度はロシアの寒気がドイツ軍の前進を阻むことになる。
ソ連軍はモスクワの防備を固めると同時に反撃に転ずる。冬が来る前にソ連を倒せると考え十分な冬装備を用意していなかったドイツ軍は、各地でソビエト軍に押し返されはじめた。
▼1943年 学徒出陣に向けての勅令
昭和十八年(1943年)十月二日、勅令により在学長州延期臨時特例が公布され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年十二月、約十万の学徒がペンを捨てて剣を執り、洗浄に赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
引用元:国立競技場の敷地にあった「出陣学徒壮行の地」石碑より
勅令が出されて3週間も経たない10月21日には、明治神宮外苑競技場(国立競技場)で出陣学徒壮行会が挙行される。この勅令は多くの若者が生還困難な戦地へ送り出されていく契機となった。
この日が誕生日
◆1869年 マハトマ・ガンジー
インドのグジャラート出身の弁護士、人権活動家、政治指導者。
ロンドンに学び南アフリカで弁護士として開業。人種差別政策が進められる南アフリカでインド系移民の権利保護活動を始める。
第一次世界大戦では、イギリスの求めに従い、インド人に参戦を呼びかけた。しかし戦後もインド人の待遇が変わないどころか、住民に対する大量虐殺事件まで発生する。イギリスへの協力がインド独立につながらないと悟ったガンジーは、イギリス製品の不買運動、イギリスによる専売制度への不服従運動、第二次大戦後にはインド独立のために連合国側と闘ったインド人をイギリスによる裁判から救う運動などを行う。国民全体に独立の機運が高まり1947年8月15日、インドは独立を果たす。
しかし、宗教を越えてヒンドゥーとイスラムの融和を目指したことでヒンドゥー教徒の一部の反感を買い、独立から1年もたたない1948年1月30日、原理主義者によって暗殺されてしまう。
◆1871年 コーデル・ハル
アメリカの政治家。フランクリン・ルーズヴェルトの下で国務長官を務める。1945年ノーベル平和賞を受賞。
1941年には日米開戦前の米国側交渉者として、11月にハル・ノートという交渉案を提示。日米の外交交渉は決裂し、日本からの対米英開戦につながっていく。
ハルは第二次世界大戦中に国連(国際連合)の設立を強く働きかけたとされ、「国連の父」とも呼ばれる。
◆1886年 小沢治三郎
日本の海軍軍人、海軍中将、最期の連合艦隊司令長官。
きわめて早期に航空母艦の集中運用を提唱するが受け入れられず、太平洋戦争では第一機動艦隊司令長官として、空母戦力のほぼすべてを失うことになるマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦を指揮する。
その後、地上勤務を経て1945年5月には最後の連合艦隊司令長官に就任。しかしその時、戦艦大和は沈み、海に浮かんでいる空母は損傷した葛城など数艦しかなかった。
◆1905年 円地文子
日本の小説家。「源氏物語」の現代語訳で知られる。
◆1935年 小原乃梨子
日本の声優。「ど根性ガエル」のひろしの母ちゃん、「アルプスの少女ハイジ」のペーター、「タイムボカン」のマージョ様、「ヤッターマン」のドロンジョ様、「未来少年コナン」のコナン、そして「ドラえもん」の野比のび太など出演作多数。
◆1948年 ダナ・キャラン
アメリカのファッションデザイナー。「Donna Karan New York」
◆1978年 浜崎あゆみ
日本の女性歌手。元アイドル歌手、キッズモデル、女子高生のカリスマ
この日亡くなった人たち
・1775年 加賀千代女
江戸時代、加賀松任に生まれた女性俳人。没年月日1775年10月2日(安永4年9月8日)はWikipediaによる。
「朝顔に つるべ取られて もらい水」
・1968年 マルセル・デュシャン
フランスの美術家。それまでの画家、彫刻家といった枠を超克した美術家というほかない活躍で、20世紀美術に大きな足跡を残した。
既製品の男性用小便器を横に設置した「泉」や「自転車の車輪」などレディ・メイド、近代までの伝統的絵画にアンチテーゼを突き付けた絵画「階段を下りる裸体No.2」、デュシャンからの挑戦としか考えられない立体作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」など、前衛のさらに前衛を行く美術家だった。
・2012年 大滝秀治
日本の俳優。ブルーリボン賞助演男優賞、キネマ旬報賞助演男優賞などを受賞した名バイプレーヤー。舞台、映画、テレビドラマ、ナレーションなど多彩な分野で存在感あふれる演技を見せた。晩年、岸部一徳と共演した金鳥のコマーシャルなど、コマーシャルの世界でも活躍。「つまらん!お前の話はつまらん!」