学徒出陣の記念碑 ~戦争の記憶を未来に~

iRyota25

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2020年、東京オリンピックのメイン会場となる国立競技場の敷地内に、「出陣学徒壮行の地」との石碑が建てられている。第二次世界大戦(太平洋戦争)最中の昭和18年10月21日、かつてこの地にあった明治神宮外苑競技場で、学業半ばでペンを剣に持ちかえて戦地へ赴くこととなった大学、高等学校、専門学校(いずれも旧制、現在の大学にほぼ相当する)の学生たちにむけて、文部省主催による壮行会が開催された歴史をいまに伝えるものだ。

昭和16年12月に米英蘭に対する戦争が始まって約2年。緒戦の勢いは昭和17年には失われ戦線は膠着。アメリカを中心とする連合軍に押し込まれつつあった時期にあたる。6月には、4月に戦死した連合艦隊司令長官山元五十六元帥の国葬が日比谷公園で行われた。アリューシャン列島のアッツ島では守備隊が玉砕(全滅)。しかし、連合軍の反攻が本格化するのは18年後半から19年に入ってからで、学徒出陣が決定された夏ごろには、最前線はなおニューギニア方面にあった。このことは、俗にいう大本営発表で戦勝ムードを宣伝しつつも、軍部や政権中枢がなみなみならぬ危機意識をもっていたことを意味する。緒戦に勝利を重ねて対米講和をはかるとの所期の計画がとん挫した時点で、すでに指導者たちは追いつめられていたと言ってもいい。この時期に学徒出陣が行われたということは、戦争にあたっての計画の浅さと甘さを示すものかもしれない。

学徒出陣の壮行会は東京だけでなく全国各地、台北、京城、新京、ハルビン、奉天、大連、上海でも挙行されたが、10月21日の東京での壮行会の模様はニュース映画として全国の映画館で上映され、国民に与えた影響はきわめて大きかった。

「学徒出陣のニュース映画、あれで世の中の雰囲気ががらっと変わったね。ぼくはその翌年に旧制中学を卒業するんだけど、国が大変なことになっているんだ、よし俺も行くぞ! という気持ちになったからね」

昭和19年春に予科練(航空兵を育成する海軍組織)に入隊したMさん(84歳)はそう話す。

「当時は戦争に賛成とか反対とかいう段階ではなくて、すでに国は戦争していたわけです。満州事変からずっとね。戦うからには、負けてほしくはない。その頃の若者としては、負けないために自分たちも戦うんだという気持ちがあった。ごく自然な考え方としてね。その意味でも、学徒出陣のニュースの影響は大きかった。俺たちも行くんだというムードになった。」

そのニュース映像が残されている。

学徒出陣 昭和18年 文部省映画

YouTube

文部省映画として制作された映像は、煽情的なナレーションにはじまる。
下に書きだした。(むずかしい言葉が多いので漢字の宛て違い、聞き間違いがあるかもしれないがご容赦を)

文教は国家興隆の基である。戦争が長期になればなるほど、一層文教も興隆の道を進まねばならぬ。我ら学徒はお召があるまでは、ひたすら学業に励むことが国に奉ずるの道であると教えられてきた。我ら自らもまたそう考えた。しかし、戦局の機、敵反抗の嵐が学窓に吹き付けてくる。頑敵に対する憤りの心は遠く戦場に馳せる。戦いはもはや時の猶予を許さない。一人の例外もあってはならない。国家存亡の時である。

この時、昭和18年10月2日、我ら青年学徒に出陣の命が下った。我らの心は豁然とした。思えば、学窓から戦場に赴くことは、学業の中絶ではなかったのである。戦場こそは、我ら学徒が全身全霊を打ち込むべき学業の庭であったのだ。

このたびの出陣は、我らに当然の務めを果たす機会を与えられたに過ぎなかったのである。しかし、当局は明治神宮外苑に全国出陣学徒代表の壮行式典を催された。我らはこの日を忘れることはできない。すなわち10月21日――。

文部省映画「学徒出陣」ナレーション

「学窓から戦場に赴くことは、学業の中絶ではなかったのである。戦場こそは、我ら学徒が全身全霊を打ち込むべき学業の庭であったのだ」「出陣は当然の務め」。そんなナレーションに続いて「扶桑歌」あるいは陸軍分列行進曲「抜刀隊」と呼ばれるマーチに合わせて、映像は銃を担いだ学生たちの行進に切りかわる。

明治神宮外苑競技場は雨。ゲートルを巻いた学生たちの足が水たまりにしぶきを上げて踏みしめて行く。水鏡に学徒の顔が映る映像にナレーションがかぶせられる。

我らはこの式場を進みつつ、きっと戦場につながる道を考えた。戦場に勇戦奮闘する諸先輩の誰がこのような光栄ある壮行会を設けられただろうかと。

文部省映画「学徒出陣」ナレーション

格別の壮行会を開催してもらったことへの感激の言葉を、学徒の声としてかぶせているのである。

映像は行進から訓辞へと移る。東條首相の言葉はとくに聞き取りにくいところが多く、どうしても判然としない箇所が残る。諸賢のご指摘を賜りたい。

一億草莽はことごとく、戦闘配置につき従来の生きがかりを捨てて身を挺して、おのおのその全力を尽くし、以て国難克服、突破すべき総力決戦の時が、将に到来したのであります。

御国の若人たる諸君は勇躍、学窓より征途につき、(しょこんのいくぶ)を高揚し、仇なす敵を絶滅をして、皇運を扶翼し奉るの日は、今日来たのであります。

大東亜10億の民を(どうじにもとぶして)、その本然の姿に復帰せしむるために勝途にのぼる日が今日来たのであります。

私は衷心より、諸君のこの門出をお祝い申し上げる次第であります。

もとより敵米英におきましても、諸君と同じく、いったん若き学徒が戦場に立っているのであります。諸君は彼らと戦場に相対し、気魄においても戦闘力においても、必ずや彼らを圧倒すべきことをわたくしは深く信じておるのであります。

文部省映画「学徒出陣」東條内閣総理大臣訓辞

「諸君のこの門出をお祝い申し上げる」
同年代の敵に対して「気魄においても戦闘力においても、必ずや彼らを圧倒すべき」
このような言葉を贈られて、20代前半の若者たちが戦場へ赴いていった。

江橋慎四郎(東京帝国大学文学部)の答辞にある、「生等もとより生還を期せず」との言葉とともに。
江橋の答辞は下記のページで紹介されている。

 江橋慎四郎 - Wikipedia
ja.wikipedia.org  

いまから70年前、父祖たちはこの時代を生き、あるいは学徒として、あるいは召集兵として、またMさんのように志願して戦地に赴いた。兵隊にならないまでも、生徒たちは勉強の代わりに工場などで勤労奉仕という名のもとでの労働に差し向けられ戦争遂行のために働いた。空襲によって工場もろとも命を失った生徒も少なくない。広島でも長崎でも勤労隊の生徒たちが犠牲になった。沖縄では中学生徒までもが鉄血勤皇隊(召集年齢に達しない少年による準兵士)として戦場となったふる里で死んでいった。

70年前に、現実としてあった学徒出陣。そして、国民全員が戦争に向けて専心し、たくさんの人々が命を失ったという事実。これをどう考えられるだろうか。

最後に、「出陣学徒壮行の地」の由来を紹介してこの小文を締めくくる。

 次世代への伝言
  ――出陣学徒壮行碑に寄せて――

 昭和十八年(一九四三)十月二日、勅命により在学徴集延期臨時特例が公布され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年十二月、約十万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
 全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年十月二十一日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺七十七校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってその実況を報道した。翌十九年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。
 時流れて半世紀。今、学徒出陣五十周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、時代を担う内外の若い世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。

 平成五年(一九九三)十月二十一日
  学徒出陣五十周年を記念して
   出陣学徒有志

「出陣学徒壮行の地」由来

「出陣学徒壮行の地」碑

オリンピックにともなう国立霞ヶ丘陸上競技場の建てかえにより撤去されることになっている。再建は未定という。

写真と文●井上良太

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