「無事終わりました!」その言葉のうれしかったこと

息子へ。東北からの手紙(2014年7月10日)

30年ほども前のこと、取材に関する不祥事が頻発して、仕事が終わったら本社に連絡するようになんてことが言われるようになった。それ以前は、取材は無事に終了して当たり前のこと。何かトラブルが発生したって、ライターがその場で何とかしておさめるのが当然。そんなこともできなないようじゃ取材なんて任されなかった。

終わったら電話で連絡してね。最初は単なる依頼の形をとってきたものが、給料とかギャラとかを盾にとった義務に変貌したのはいつぐらいのことだっただろうか。

取材が終わって会社に連絡をすると、デスクとか編集事務の人なんかが、「お疲れ様です。どうでした?」なんて聞いてくる。だからこっちも、「いやあ、びっくりするくらい面ん白い話をたくさん聞けたよ」なんて応えてた。

それがさ、新しいデスクが赴任してきてさ、その人、とっても愉快で、一緒に飲みにいったりするとサイコーな人だったんだけど、取材が終わった旨の連絡にこう言うんだ。

「無事?」

たぶん口癖みたいなもんだろう。もちろん生きているかどうかという意味での無事じゃなく、企業体として支障が生じるようなトラブルはなかったか? って意味。あんた大丈夫だったか? じゃなくて、うちらはあんたの行動によって危害を被るようなことにはなってないよね、大丈夫だよね? っていう念押しってココロが透けて見えた。

そのさ、無事?っての止めようよって何度も話したんだけど、仕事上の付き合いがある最後まで、彼は「無事?」ってのを止めなかった。彼には彼のポリシーがあったのかもしれない。

こっちとしてみればさ、トラブルさえなければそれでいいのかよ! ってちょっと怒りたい気分なのわけさ。そもそも取材なんてもんは、想定外の話とか出来事とかがあるからこそ意味がある訳でしょ? でなきゃ話を聞きにいく意味すらないじゃん、なんて毒づきたくなるくらい。

だいたいさ、失礼だろ、未知の話を探索に行った人間に対して「何もなかったよね」なんて。

だから、無事って言葉にはずっと反発を感じ続けてきた。予定通り終わることを前提にしようなんて考え方そのものに反発してきた。20世紀の半ば過ぎから21世紀の今日に至る社会とか世界とかの問題の根源が、この予定調和主義にあるんだという考えはいまも変わらない。

だけど、7月10日、この「無事」は喜びとか嬉しさとかたくさんのプラスの感情が沸き立ってくる、とても素敵なものだった。スマホのお知らせ画面にこの言葉が浮かび上がったとき、酔っぱらい父さんの目クソだらけの目もしっかり開きました。

「リョータさん!無事終わりました!ありがとうございました」

復興バー銀座、2日間に及んだ「日和キッチンナイト」が終了したことを知らせてくれたスタッフの方からのメッセージ。

無事っていう言葉がこんなにうれしいものだって、初めて知った。

台風が直撃したり、そもそも不慣れなお店での営業だったり、予想されていたことだけどたくさんすぎるほどのお客さんがやってきたり。石巻からやってきた彼女達、不安がいっぱいだったと思う。お店ではさ、いつもの石巻のお店の5倍増しくらいの笑顔だったけどさ。

そもそも、なんて言葉は使いたくないけど、あの日のことがなければ彼女達がこうして銀座でたくさんのお客さんを迎えることはなかったかもしれない。

あの日があったから。それは間違いなくそういうことだろう。

でも、あの日があったから、日和キッチンの人たちと出会うことができた。石巻の東北のたくさんの人たちと話したり握手したりハグしたりできるようになった。

彼女の「無事」って言葉に、「もう誰にもこんな思いをしてもらいたくないんです」という言葉をなぞらえるのはキツいことだろうか。

無事ということのありがたさ、笑顔の意味。難しく考え過ぎる必要はないのかもしれないけれど、そんなことを思ったということのご報告。

文●井上良太