気仙沼港の一番奥の高台に、ひときわ目立つ建物がある。山の斜面に張り付くように立てられた建物の上に、体育館とおぼしきものが乗っかってる。
離島マニアのOくんと気仙沼を訪ねたとき、彼がしきりと気にしていた。気仙沼大島に渡るフェリーの行きも帰りも、あの建物が気になって気になって仕方なかったと彼は繰り返した。
はじめて気仙沼を訪れたら、誰しも「はっ!」と思うような建物だ。その建物が「気仙沼女子高校」の学び舎であることは、近くから見上げた時に見た看板から知った。
気仙沼には港の奥に屹立した山の上に、ユニークな校舎の学校がある。
その学校がどんな学校で、どんな生徒たちが通っていたのかなど、本質的な情報はほぼ何もない。でも、目にして、気にして、見た感想を語り合ったりすれば、それだけでその場所とのつながりは深まる。
2014年の卒業式シーズンが始まった頃、新聞紙面で「気仙沼女子高の閉校式」という見出しの文字を目にした。瞬間、あの特徴的な建物が目に浮かんだ。
震災と津波で甚大な被害を受けた上、鉄道も再開されないなど悪条件が重なって、気仙沼女子高校に通う生徒は現象の一途をたどっていたのだという。
河北新報の記事によると、最後の卒業生は18人だったとか。
生徒会長の菅原綾香さんはこう語ったという。
「生徒数が少なく制約もあったが、少人数だからこそできたこともたくさんあった。緊張と不安で足が震えるが、気を引き締めて前に進みたい」と抱負を語った。
閉校式では、村上校長が学校を運営する「畠山学園」の畠山享子理事長に校旗を返納した。「秀峰安波みどりに映えて」で始まる校歌を全員で斉唱し、別れを惜しんだ。
18人は、まだ通学路にがれきが散乱していた2011年4月末に入学。新しい制服がそろわず、中学時代の制服や私服を着て入学式に出席した。
同校最後の4925人目の卒業生となった守屋朋美さん(18)は「いい仲間と出会えたのが最高の思い出。大学卒業後は気仙沼市に戻り、復興を支えたい」と話した。
町のシンボルでもあった校舎の跡地は、災害公営住宅の建設候補地になっているとか。
ーーそんな記事を目にして、校舎を見上げる南町にある復興屋台村の名物店、大漁丸さんのFacebookにメッセージを書き込んだ。懐かしい景色がなくなってしまうことについて、重くなりすぎないように言葉を選んで。
そうしたら、しばらくして大漁丸さんのお母さん菊池さんから返事。
「ほめごろしにうれしかった大漁丸です」
優しくて、明るくて、お店を訪れるすべての人に愛情を注いでくれるような、そんなお母さんの言葉。こんなに元気に人、なかなかいないなんて思ってた。
だけど、ちゃんと覚えているよと伝えるだけで、よろこんでいる様子がメッセージとして返ってくる。その学校がどんな学校で、どんな生徒たちが通っていたのかなど、本質的な情報はほぼ何もない。それでも風景だけは共有している。
ぼくたちは、ただ感じるだけじゃなくて、感じたことをしっかり相手に伝えなきゃならないんだということを再び思い起こした。
大漁丸さん、また行きます!
写真と文●井上良太