大船渡・綾里で受け継がれてきた津波の記憶

どうして駅前に、小学校がつくった「津波防災を訴える看板」が設置されているのか。一見、まるでよくある住宅地図の看板と見間違いかねない地味なものかもしれないが、そこに記されたものが何を意味するものなのか。

一年ぶりに訪ねた綾里でその看板と対面したとき、100年の時を越えて伝えていかなければならないことを、生身の言葉で突きつけられたように感じた。

2014年正月。綾里駅前の看板を起点に、大船渡市綾里地区のいくつかの場所を歩いた、その記録をここにとどめたい。

「平成19年6月 大船渡市立綾里小学校」の文字

東日本大震災を経験するまで、日本で最も高い津波を記録したとされてきたのが、大船渡市綾里(りょうり:当時は綾里村)。明治三陸大津波では地震の18分後、白浜地区が38.2メートルの津波に直撃された。これが長く日本最大の津波とされてきた大津波だ。白浜には被災前に236人が暮らしていたが、明治三陸大津波で175人もの命を失った。明治の大津波では綾里村全体でも人口の56%を超える1,269人の死者行方不明者を出してしまった。

過去に甚大な津波被害を経験してきた町、綾里。その玄関口にあたる綾里駅前の駐車場の一角に、津波被害への警戒を呼び掛ける看板が立てられている。

看板の下には「平成19年6月 大船渡市立綾里小学校」の文字。その隣には赤地に白抜き文字でこう記されている。

「お願い!!津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください。」

看板の半分は避難場所を記した地図。そして右半分は明治三陸大津波と昭和三陸大津波のそれぞれの被害状況が、集落ごとに「被災前人口」「死者・不明者」「負傷者」「被災前戸数」「流出家屋」「倒壊家屋」「浸水家屋」「船舶流失破損」の項目で具体的な数字が記されている。

綾里のこども達は、おりにつけて津波の恐ろしさを学んできたのだろう。数字で具体的な被害を示されれば、転勤の多い教師たちも、津波への対策に危機感をもって取り組んでいたことだろう。

綾里小学校では、実際に東日本大震災以前から、津波から身を守るための防災教育に取り組んできたようだ。「ウォーターセーフティー ニッポン」(水の事故ゼロ運動推進協議会)で紹介された、震災発生時校長だった前校長の鈴木晴紀さんのインタビューによると、津波の恐さをリアルに実感するための「方言劇」や、年2回、各地区に分かれて行う登下校時の避難訓練、マニュアル作成などを行ってきたという。

東日本大震災では、通常なら1年生から避難するところを、避難先までに坂が多いことを配慮して6年生から順に避難させたと、前校長の鈴木晴紀さんは動画の中で語る。訓練からの教訓を生かした避難が行われたということだろう。

綾里は「津波てんでんこ」という言葉を全国に広めた山下文男さんの出身地でもある。山下さんは明治三陸大津波で一族9人を失った家に生まれ、昭和三陸大津波では父親にてんでんこの言葉を教えられ高台に避難。その後、東日本大震災では陸前高田の病院に入院中、津波に首まで浸かりながら、病院職員や自衛隊員に救出された。生涯に2度の大津波を経験した山下さんだが、2011年12月、盛岡の病院で逝去した。綾里に建てた住まいも流されたままだという。

地図に赤い文字で記されているのが避難場所。よく見ると小学校は赤文字ではなく黒い文字。地震が来たらただちに避難しなければならない場所、ということだ。

綾里小学校

駅前から坂を見下ろすと遠くに海が見える。綾里小学校は駅と港のほぼ中間。標高31メートルの駅前駐車場から坂を下りきって、道がほぼが平坦になった辺りにある。こども達、そして小学校周辺の住宅地に住む人達も、地震後急いで高台の駅方面を目指すことになる。

坂道を下って行くと、小学校前の三角地帯に「津波到達の地」との石碑が立てられていた。右の写真の奥、ピンク色の建物は小学校の一部。あの辺りで海抜5メートルほど。

東日本大震災では、場所によって過去最大の津波高さを記録した綾里地区だったが、住民の避難は小学生たちも含め、比較的うまく行われた。それでも、地域全体で28名の死者と3名の行方不明者を出すことになってしまった。

綾里小学校前「津波到達の地」の碑

綾里港

綾里小学校からさらに海に向かって歩いていくと、ほどなく港に到着する。港の周辺には、津波で破壊されたガードレールや港湾施設など、いまも無残な姿のままの場所も残されている。

大津波から3度目の正月を迎えたとは思えないほど、被害直後の様子を髣髴とさせる光景が広がる。しかしそれでも少しだけこころが明るくなったのは、港に係留された船のほとんどに縁起物の正月飾りがなされていたこと。小さな船外機ボートにも松飾が飾られていたほどだ。

元日の夕方の光に照らされる漁船の漁具が真新しい。イカ釣り用(?)の照明にも負けないくらい、オレンジ色のリールはピッカピカだ。

年の初めに合わせて新調された漁具。海で稼いで立ち上がる、という意気込みが伝わってくる風景だった。

小石浜

港からクルマで山道を越えて小石浜に行ってみた。三陸鉄道の駅名は「恋し浜」。地名をもじってロマンチックな名前を売り出したのは地元の青年部の人たちだという。恋し浜はもともと、この浜の特産品であるホタテに付けられたブランド。駅名はホタテの新ブランドにちなんで変更してもらったことで、恋愛と縁結びの名所としても知られるようになった。大船渡の名品として知名度が高まったホタテは、恋し浜バーガー(ホタテがまるごと1個入りのコロッケをタルタルソースと野菜で挟んだ見た目も味もかなり驚きのバーガー)というご当地グルメとして、再起を目指す浜の人たちの協力なアイテムにもなっている。

壊されたままの岸壁の向こうに、まるで手を取り合うように整列して係留された漁船

そんな小石浜地区を襲った津波の高さは約17メートル。津波で被災した家屋は少なくないが、住民は全員無事だったという。震災直後にはほとんどの人が高台の公民館で共同生活を送る様子はニュースでも伝えられた。